「なでこSMILE」のアニメ感想BLOG

アニメや漫画などについての、自分の思いを記録するブログ

映画「ハーモニー」の感想<ネタバレ全開注意>

f:id:smilynadeko:20151118234046j:plain

 圧倒的絶望を描いた、最高級の超ディストピア作品でした。

 まず映画としてどうだったのかという感想と、ここが面白かったというポイントをいくつか上げて、その後でこの映画を見て一番考えた、原作と異なるある部分についての私見を書こうと思います。ちなみに原作は読了済みです。

 ※ 映画、原作双方に最初から全開でネタバレ注意。

 <映画全体としての感想>

  ある種「セカイ系」として見ることができる作品でした。それは「普通の人間には興味がない」という「涼宮ハルヒの憂鬱」の台詞を、作品内に引用していることからも、作者がその文脈を意識していたことは明らかです。
 大人になってイノセントなものを失うくらいなら、自らの死を選ぶという「少女の自我」と「大人の世界」という対立の構造から、社会問題や人間の悩みなどを分析してみようというその手法自体はよくあるものですが、この映画の場合は、その普遍化の遡及具合が尋常じゃありませんでした。ミクロからマクロまで、あくまで理詰めでこうした世界に対する認識方法を、詰めて詰めてつめまくって、考え抜いたその末に、とうとうこの世の果てまでたどり着き、最後はその崖から作品を落っことして見せるという、もはやこれ以上この文法では「お話の筋としては」答えが導き出せないという彼岸にまで到達していると感じました。
 
 超絶技巧のプロットと理屈を凌駕したもはや情念さえ感じる、これは完全無欠の、真っ白な絶望の物語です。

原作をかなり忠実に映画化

   自分にとって「読みやすい小説は、だいたい一人称」、あるいは「一・五人称ぐらい」と原作者自身が語っており、今作も(処女作『虐殺器官』も第二作『メタルギアソリッド ガンズ・オブ・ザ・パトリオット』も)ほぼ一人称で書かれた小説であり、常に「個人的な述懐」という形式をとった文章で「物語自体」を紡がれるていらっしゃるようなので、映像化するのはかなり難しい作品だと思っていました。これは監督のなかむらたかし氏も、原作を読んでそう思ったとパンフレットで述べておられます。ですが、本映画ではそうした伊藤計劃氏の「世界観」もかなり忠実に再現されているように思いました。
 例えばレストランでトァンとキアンが再会するシーンなど、ほとんどが会話のみで動きの少ない小説の場面も、FULL CGで二人の周りをカメラがゆっくりと回転して見せる演出など、斬新な表現でうまく映像化しており大変驚きました。
 他にもミァハから全世界に対して、「宣告」が行われるシーンも、スクリーン一杯にピンク色の字で「VOICE ONLY」とだけ表示しており、観客である私自身も登場人物がオーグ(AR、つまり拡張現実)を通して見ているものと同じものを目撃しているようになっており、極めてドキュメンタリックな仕掛けが施されていて面白かったです。その他、映画化するために余計な登場人物やシーンを削るなどの変更はいくつもありましたが、あくまでトァンの「意識」を忠実に追いかけていたので、映画の展開が大変見やすかったです。

「映像でこれが見たかった!」というシーンを巧みに映像化

   文字ではない、映像メディアの特性を最大限に生かして、原作を読んでいたものとして、見てみたかったシーンが次々と実際に映像化されているのには本当にぐっときました。
 例えばFPS(主観視点)の自殺者ログのシーン。これは本当に凄まじい迫力で、恐怖を感じました。キアンの自死シーンの、同時刻同シーンの別カット主観バージョンなども、3DCGの特性を最大限生かしていて唸りました。
 他にもアバターの会議シーンが一色で絶えずノイズが走っている感じなど、この時代の技術水準を垣間見せるあたりや、「攻殻機動隊」やSF映画などで、すっかりおなじみになった、視界の中にARウインドウが開いて、目を向けて映した物体の情報を次々に写し出すシーンなども、是非「ハーモニー」の映画として、見てみたかったところだったので大変嬉しかったです。
 その他、原作には詳しい背景描写のないミァハとキアン、トァンとの13年前のシーンも、その関係性(特にミァハとトァンにフォーカスして)ぐっと二人の関係を濃厚に描いて、映画の主軸にしたと監督がおっしゃっているように、プールのシーンでのミァハとの会話や、音楽室での白いピアノ、屋上や夕暮れの教室での会話など、「中学生女子感」が堪らなく出ており、いい意味で「中二病感満載」のミァハの描き方がすごく良かったです。原作だと最初から崇高過ぎる感じがあるので余計にそう思えました。
 その他、レストランでキアンの代わりに気がついたら自分が彼女の椅子に座っており、ミァハに促されるままに手にナイフを持ったトァンが、恐怖と同時に少し陶酔したように顔を赤らめながら、自らの喉にナイフ突き立ててしまうという妄想も、完全にトァンの喜びとも嫌悪ともつかない絶妙な感情が表現されていて、凄まじかったです。
 また背景についてですが、「戦地」と「ハイソサエティ」と「バグダッドの市場」という異なる世界観をものすごく綺麗に描き分けており、これがひとつの映画なのかという、その美術、デザインが素晴らしかったです。ピンク色の善意で埋め尽くされた日本というのは、こういう感じだったのかとかなり楽しんでみました。それに最後の塹壕のシーンは、私が原作を読んで想像していたのとほぼ100%近いものがそのまま出てきたので、本当に驚きました。
 最後に、例えば建築物や、飛行機の尾翼、また先ほどのレストランでのカメラの回転もそうですが、おそらく遺伝子の二重螺旋を意識して画面をくるくると回転させているのが、演出の意図と作品のモチーフが相まって、すごい説得力を生んでいました。

 


「ハーモニー」劇場本予告 - YouTube

<以下、作品の内容に関する個人的見解>

 初めに私はこの映画を圧倒的絶望を描いたもので、超ディストピアの「セカイ系」として見ることができると言いましたが、その理由をこれから述べたいと思います。
 

 ここでの絶望は誰のものかというと、御冷ミァハのものです。そして、ディストピアとは彼女の反逆が失敗に終わり、自己の存在証明を諦め、彼女にとって昔に還ることと同義である「ハーモニー・プログラム」が発動した世界であり、また「セカイ系」として見ることができるのは、「霧慧トァンの物語」としてです。

 それではまず、「御冷ミァハの圧倒的絶望」について述べたいと思います。

御冷ミァハの憂鬱

  この物語において、御冷ミァハは完全に敗北しました。

 戦場における地獄のような慰安所での「暴力」によって、自己の「意識」を生ませられた彼女は、その正反対の地獄である、慈愛に満ちた日本での真綿で首を絞められるような「善意」により、また別のやり方でその身体と精神を他者によって徹底的に蹂躙されることで、もはやこの世界に対して取るべき選択肢は、自爆テロしかないというところまで追い詰められてしまいました。
 ここでまず、この世界について注意しておきたいのは、トゥアレグなどの民族がいる地域やチェチェンなどの紛争地域は厳然として残っている、つまり「戦争地帯」がある、という部分です。ここは、人間の野蛮な動物の部分が剥き出しになる混沌が支配する世界です。それに対して、生府(ヴァイガメント)によって、ナノマシン単位で身体を公共資材として、徹底的に管理されている先進世界があります。
 つまり、ここには「自由」と「制御」という両極端な二つの「地獄」があり、彼女はその両方のどちらでも、自分の人間性を剥奪され続けたことで、この世界にせめてもの反撃を加えようとします。もちろんその方法が「抗議の自殺」しかないという、究極的に追い込まれた状況であることが、まずそもそも悲劇ですが、この時点ではまだ絶望ではありません。

「自主性」という名の地獄

  ここで、つい「この医療合意共同体が支配する、平和な社会のどこが悪いの?」という気になってしまいそうですので、この世界における物語の舞台となる日本が、どういう地獄かについて、御冷ミァハがどこに苦しんでいるのかについて、ちょっと整理してみたいと思います。
 まず、このシステムは不完全です。理由は「自殺」を抑止できていないからです。子供の自殺率は年々増加していると語られています。社会によって全てを管理されるストレスによって、無意識に自己認識のために自傷行為をしてしまう。

 伊藤計劃氏は、自ら語っているように、徹底して現実を描く作家です。例えば、現在の日本の自殺者数は年平均で3万人を上回っていますが、これは日露戦争時の戦死者数を上回っています。システム不全によるストレスで命を落とす人間が戦時下を超えている。これが社会として危機的状況であることは言うまでもありません。その問題を敷衍化して描いたのが、この物語の世界です。
 それこそシステムによる規制、補正によって実感しづらくなっていますが、我々を無意識下に圧迫する社会的負担は想像を絶するものがあります。

 そんな場所に、この現状に協力するように、国民を合意員(アグリーメンツ)と呼んで、自主的に参画するよう差し向けられているのです。それがこの世界での地獄であり、戦地とはまた別の意味でそこには選択肢がありません。
 原作小説にておいて、冴木ケイタとトァンがこの社会について考察する場面がありますがそこで、この社会はある意味で「ナチスドイツの世界版」であるというくだりがあります。ナチズムの定義は多岐に渡りますが、戦時下の強制収容所における有名な話として、「なぜこんなことをするのか?」というユダヤ人の問いかけに対し、ナチスの返答は「ここになぜはない」というものでした。また極めて民主的な手法で政権を掌握したと言われるヒトラーですが、民主制の落とし穴とも言われるその多数決の方式。これをうまく悪用した方法として、選択肢を迫る、というものがあります。つまり「我々に与するか、それともここを出て行くか選べ」というものです。
 一見、選択肢が委ねられているように見えますが、ここには「選択をしない」という当然の権利が完全に剥奪されています。つまり、立場の表明を強制されているのです。 

 この「問いかけの封殺」と「選択の強要」が、私がナチズムの定義として最も合点がいっている、社会的脅威です。

 御冷ミァハの「叛逆の物語」

  こうした世界の全てに憎悪し、御冷ミァハは「本」によって得た知識を武器に抵抗を開始しますが、当初は無差別テロなどに走らず、「自らの死によって権力の中心と相対しよう」と決意します。

 例えば、彼女はミシェル・フーコーの「死だけが権力の限界、権力から逃れることができる瞬間、死は存在の最も秘密な点」という台詞を引用しています。もちろんこれは別に「死」以外に自由はないという意味ではなく、封建社会における罪人の処罰の場において、処刑が行われる前でのみ、王である権力者と被権力者が構造的に対等に立てるという、近代以前の統治システムに現状を見立てて語っていると思われます。

 この事実だけでも、彼女が本により自身で感じ、学んだことで、極めて真っ当で個人的な反逆を行おうとするあたりは、いかに幼いながらもクレバーで、また繊細であると同時に、革命家として、作品内の言葉でいうならカリスマとしてすぐれていたかわかる部分です。

 繰り返しになりますが、もちろんそれが、反抗的な自殺という限りなく悲しいことであったのはいうまでもないですし、大いに批判されてしかるべきものですが、もはや僧侶による、抗議の焼身自殺のような覚悟があったことは間違いありません。

 そんな彼女が、たった三人だけしか味方を見つけられませんでしたが、同じような潜在的不安を抱える同志を募り、叛逆を完遂しようとしたにもかかわらず、その全員が自決に失敗してしまいます。
 明確に描かれてはいませんが、おそらくはその失敗は、彼女の弱さ幼さが招いた必然で、道連れを探していたのは死への恐怖から逃れるためでしょう。後で述べますが、彼女の人間性がこの二人に対するときだけ、最も発揮されていたからこそ、自決は失敗したのです。結果的にその時点で一番社会的に適応性のあった、言い換えるなら大人だったトアンによって命が救われます。
 ここから彼女の真の絶望が始まります。

御冷ミァハの「永遠の物語」

  その後、彼女のような社会に適合し得ない子供たちという、いうなればシステムのセキュリティーホールのような存在の意識を研究する過程で、遺伝的に「意識」を持たない民族という存在が明るみになり、「ハーモニー・プログラム」という、「意識」を喪失した、「個」が「個」を認知できなくなった存在を脳機能的に発動させるシステムが、ヴァイガメントの上層部によって、勝手にすべてのアグリーメンツに実装されます。ここにはもはや最初から形だけだったとはいえ、個々人の合意というものも存在せず、完全に強制として一部の権力者によって暴力的に採決されます。いかに、医療合意共同体というものが欺瞞にみちた暴力的な善意であったかわかる部分です。
  
 そして、かつて個人の意識と、人間の尊厳のために戦っていたはずの御冷ミァハは、二つの意味で敗北します。

 ひとつは、かつて公共的身体という概念を憎み、いつでも毒ガスで虐殺行為を行えると嘯いていたが、あくまで真っ当に革命家だった彼女が、自らの意識と目的のために手段を選ばず、かつて憎んでいた暴力的なシステムを利用して、「自ら死ぬか、誰かを殺すかを選べ」という宣言を行い、世界の倫理バランスの崩壊を実行します。つまり、システムに対する個人的復讐ではなく、極めて権力的なやり方で構成員の身体を標的に、大量殺人を行います。もはや例えとしての目的である「虐殺」は、手段としての本物になり、「標的」であったはずシステムを、手段としてのナチズムとして実行する側に回ってしまいます。
 ここで革命家・御冷ミァハは死にます。
 
 次の敗北が決定的ですが、彼女は「遺伝子」に敗北します。
 繰り返しますが、こうして行った虐殺行為は、最終決定権を持つ、権力者たちへの恐怖をあおるために行われます。ここにおいて彼女が所属していた「次世代ヒト行動特性記述ワーキンググループ」のなかでも少数派であるテロリストグループが、「ハーモニー・プログラム」を発動させる決定権を持つ老人たちに選択を迫り、強制的に目的を達成しようとしているように、権力関係が綺麗に逆転しています。
 そして、その目的は社会的ストレスを受けやすい、子供たちの脳を研究することで得られた、システム下の人類の「意識」を消滅させること。彼女の出自である、もともと「遺伝的性質」として「意識」を獲得していなかった特殊な民族の一形態へと、システム管理下の人類を強制的に還元することです。しかもそのプログラムを実装したのは彼女が憎み嫌っていた、システム側。そこにはもはやイデオロギーの対立はなく、核抑止論と同じく、使うか使わないかの問答だけが空転しています。
 つまり彼女は結果的に、権力を手にすることで、自己を肥大化させ、自らを「規範」としたシステムを他者に強制しようとしてしまいました。そもそも彼女の「意識」自体が、外敵から緊急に身を守るために、「ストレス」を認識することを必要とし、擬似的に生み出されたものであるにも関わらずです。
 大変な皮肉ですが、結果的に彼女は自らの内面のシステム、遺伝子に負けたのです。これはそのままヒトの「意識」獲得の過程と、「意識」の放棄による生物的な退行とに重なります。一周回ったはずの螺旋は、次の階層にたどり着くことなく、またもとの輪に戻ってきてしまいました。
 円環はここで、永遠に閉じています。  
 
 以上が私の考える、御冷ミァハの圧倒的絶望です。

「調和」というディストピア

  次に、なぜこの「ハーモニー・プログラム」の発動した、システム管理下の世界が超ディストピアなのかについて述べます。理由は、「自我」という「意識」のなくなった人間は、もはや人間とは呼べないものだからです。
 作品内で語られるように、何もかもが自明で、今日の一万円よりも未来の二万円を永遠に選択し続ける意識のありよう。競争し淘汰し、ようやく決定される潜在的にそもそも選択的な「意識」が、なんらの葛藤も苦悩もなく社会全体のために機能し続ける存在、それは動物的な進化というより、もはや生物的退化です。蟻や蜂などの社会性とどのような違いがあるのでしょうか。
 先に述べたように、強制的に選択を迫られる場面で留保なく選択し続ける組織の有り様は、そのまま意志の形成過程にナチズムを導入するようなものです。そこでは、「一人はみんなのために」、はあるのかもしれませんが、「みんなは一人のために」は存在しません。
 ミァハがトアンを脅迫する場面で、「善って何だと思う?善っていうのは、突き詰めればある何かの価値観を持続させるための意志なんだよ。それが善の本質なんだ」と言いますが、彼女はここで、限定的な善について語っているに過ぎません。それを人間に普遍化して述べるなら、人間の人間として最善の善は、人間としての価値観を持続させるための意志を持つこと、です。彼女のこの自己正当化は、独善的な自己の肥大であり、システムに抗する自我としてのそれではありません。
 
 劇中に彼女は坂口安吾の「堕落論」を読んでいるシーンがありますが、安吾は日本人が快適に暮らしていくために『必要』ならば、法隆寺を建て壊して駐車場にしてしまっても、それは我々が日本人であることと本質的になんの関係も無い」という内容のことを言っていますが、もはやこの彼女に「日本人であることの本質」、「人間であること」という部分は、すっぽりと抜け落ちています。安吾は何も合理性を追求するために、歴史的建造物をなんの『必要』もなく積極的に破壊せよなどとは一言も言っていません。
 かつて彼女は自分の覚悟のために、自分の半身である「本」を焼きました。この当時、確かに彼女にとって「本」は「自らの半身」であったことでしょう。ですが、原作ではトァンに看破されるように、自らの「自意識」の自己正当化のために、その後ろめたさからキアンを「自らの人間性を人質にして」脅迫し自殺に追いやり、自分の考えるユートピアを他人に押しつける彼女にとって、それは今となっては、すべての回答が自らに帰結する独裁者による、焚書に他なりません。
 ここでは、すべての情報は都合良く選択され、尊厳としての「意志」は放棄され、すべては遺伝子によって支配されます。「言語」という器官の発達とともに、ヒトが進化させてきた社会性はその自立進化の可能性を放棄し、人間という種全体の思考は停止します。それも単なる一部の人間の暴走によって。 
 よって、その手段自体がそもそも間違っており、また結果として自らが一番嫌悪していたものに一回転して戻っている。そしてそこで実現されるのは「完全なる社会性」かもしれませんが、それはしょせん動物のそれであり、人間のそれではありません。
 
 従って、この「人間」がいなくなった世界を、私は超ディストピアだと思います。

敗残者と脱走者の物語

  最後に、この作品が霧慧トァンにとっての、「セカイ系」としての物語として見ることができた理由について、映画と原作のラストシーンの台詞の変更を中心に述べたいと思います。ところで、ここでいう「セカイ系」はごく単純な意味での「この世界の行く末が、君と僕の行動に全て掛かっている」というものにしておきます。
 
 ひとつの結論から先に言いますと、この作品全体があくまで「ハーモニープログラム」という「限定されたセカイ」を発動するに至るまでの、「一個人の主観」で綴られた物語だからです。
 まず作品の構造自体が、全世界の数十億人の意識が消滅したあとの、人間ではなくなってしまった世界で編集された霧慧トァンという一当事者の、意識が消滅するまでを記録した、テキストという体裁を持っています。
 なぜトァンが当事者のサンプルとして、こうしてテキスト化されたのか詳しい説明はありませんが、「彼女たちこと、我々の『わたし』の最後の弔い手」という文章があるように、全世界をある意味で「御冷ミァハ化」してしまう計画を推し進めた、当人を殺害した最後の個人、だからではないでしょうか。映画冒頭まるで墓場のような図書館で、このテキストは最初こういう出だしで始まります。
 
 いまから語るのは、 
 
<declaration:calculation>
 <plus:敗残者の物語>
 <plus:脱走者の物語
 <eql:つまりわたし>
</declaration>

 もちろんここで敗残し脱走したのは、革命家・御冷ミァハについていけなかった、霧慧トァンということになるでしょうが、最後まで作品をみると「ハーモニー」の発動を止めることのできなかったトァンの、また最後の最後まで、自らが「個」であることにこだわり、せまりくる「意識」の強奪に自らの手を汚してまで抵抗してみせた、究極のエゴイスト、霧慧トァンの物語としても見ることができると思います。この時点で、構造上この作品は「セカイ系」のひとつとして見ることはできると思いますが、私が特に注目したいのは、映画と原作では最後にミァハを射殺するシーンの台詞や描き方が少し違う部分です。
 この部分で私は特に映画の方に強烈に「セカイ系」を感じることになりました。以下にその理由を述べたいと思います。

君の知らない物語

  霧慧トァンは、御冷ミァハの幻影をひたすら追いかけてきました。
 そして愛するものと道をともにできなかった後悔とともに、一人取り残された世界において、「制御」と「自由」の狭間で苦悩しながら生きていました。そして、死んでいなかったかつてのカリスマ御冷ミァハの行動に対しても、あくまで「自分の問題」として、悩み苦しみ安易な結論を出さず、自分をさんざん利用した末に「世界はあなたの肩にかかっているのかもしれない」などという激励を投げかけてくる連中に対して、「世界がどうなろうと知ったことではない」とあくまで、個人的な問題として立ち向かい続けます。
 ミァハは何をやろうとしているのか、かつての自分と今の自分はどう違うのか、個が、意識がなくなるとはどういうことなのか、そしてトアンの死と父親の死を経験して、ミァハと再会することで何が起きるのか、この作品自体がそもそも彼女の主観で綴られている以上、このテキストに現れたすべては「彼女」の「意識」そのものであり、その「言葉」も彼女が生み出したものです。
 ですが、ここで一番注意しておきたい、また私が原作を読んで一番深く考えさせられたのは、この主観であり「意識」である物語は、当然「無意識」という描かれていない秘密の場所があり、彼女すらも途中では意識できない、プライベートな要素が含まれているという点です。だからこそこれは「彼女の物語」になり得るのです。 
 そして最後、かつて崇拝し、死をともにする決意までした自分が一番愛する御冷ミァハと再会します。
 ここで、原作と映画で表現が変わっていますが、彼女はすでに手遅れになってしまっている強制的な意識の剥奪「ハーモニー」の発動を目前にして、御冷ミァハを射殺します。

原作との表現の違いにみる「セカイ系」としての映画「ハーモニー」

  映画では塹壕で再会したミァハに、一緒に「ハーモニー」の世界へ行こうと手を差し伸べられて、彼女を抱きしめます。そして「あなたは私の好きな、あなたのままでいて」と言って彼女を射殺します。
 一方原作では、「わたしはキアンと父さんの復讐をする」と言って、さらにその方法を「あなたの望んだ世界は、実現してあげる。だけどそれをあなたには、与えない」として二発の弾丸を撃ち込んで殺します。
 
 ここにはエゴイズムは同じですが、圧倒的にスタンスの違いがあります。
 
 まず映画では、監督がパンフレットで、「ミァハとトァンの関係をベース」にキャラクターを捉えて、「身体を使ったミァハのコミュニケーション」をトァンが受け入れたから、2人の物語はラストに至れるのだというふうに考えた、だからこそ「15歳での二人の関係は濃く描かないと、ラストシーンに至る感情が見えてこない」と述べておられるように、あくまで自分の愛する唯一の人であるミァハを「一個人」として失いたくない、物理的に「身体」が違うからこそ、「他者」であるからこそ愛し合うことができる、という限りなく「自己愛に近い他者への愛情」によって、彼女を自分のエゴのために射殺します。
 二人が愛し合えない世界なんていらないから、それよりは死を選ぶ。私が「セカイ系」を強烈に感じるのはこの部分です。
 一方原作では、現在の御冷ミァハを否定するために、個人的な復讐をします。
 かつてのカリスマであり、自分が追いかけ続けてきた彼女に対して、彼女と自らの違いを明確にするために、間違いを指摘するために彼女を殺します。
 その間違いとはかつての同志だったキアンを、個を捨てる世界を目指すといっておきながら、自らの罪悪感や潜在的な恐怖感から逃れるために、虐殺行為を正当化するためだけに、自殺に追いやったからです。そしてある意味においてミァハの人間性が一番発揮されていた、中学時代の仲間である自分が、現在も残っている彼女の人間性を指摘するために、人間として死なせるために、人間として殺してあげます。
 また、彼女の始めた抗争に巻き込まれて犠牲となった父親の敵のために、銃を撃ちます。
 ここにはもちろん、虐殺されたみんなのため、などというお題目はなく、あるのはあくまでプライベートな動機による犯罪です。
 
 もちろんどちらが良いとか悪いとかいう話ではありません。私はそもそも映画と原作は全然別物として考えるようにしていますし、好みでいっても、私は両方好きです。
 
 どちらも最後の最後まで、個を貫いた結果での行動なのは同じです。ですが、映画版は「来るべき変化」を前にして、自らのうちに二人の過去の思い出を永遠にしようという「閉じた自意識」があります。
 これに対して、原作ではこの「変化」を前にしてもなお、相手の間違った「意識」に対して、異議を申し立てるという、「立ち向かう自意識」があります。
 「世界がどうなろうが、知ったことではない」のは同じです。ですが、片方は愛する「二人の物語」になっているのに対して、もう一方は追いかけて悩み続けて考え抜いた末についに、とうとう御冷ミァハに追いついた、かつてのともに革命を志した同志の一人、「霧慧トァンの物語」になっています。
 このスタンスの違いによって、映画は悲しくも美しいバッドエンドを迎えます。そしてエンドクレジットに流れるEGOISTの「Ghost of a smile」という、二人の物語についての曲につながって行きます。
 以上が、この映画を私が霧慧トァンの「セカイ系」の物語、として見ることができる理由です。

永遠の夜の中で

  以上が作品の内容に対する個人的な見解ですが、最後に、この作品に残された「人間としての希望」について考えてみたことを、書きたいと思います。
 結論として、私はこの作品において、充分に「人間が復活する可能性」が残されていると思います。以下その理由です。
 
 初めから、私はこの物語を「超ディストピア」作品であり、霧慧トァンという一個人の「セカイ系」の物語であると言っておりますが、それはあくまで、「ハーモニーのセカイ」のなかでの話です。
 確かに、この「医療産業複合体」が支配する「システム管理下」の社会に暮らす人間は、プログラムの発動とともに、「天使のひと撫で」で「意識」を奪われてしまいました。ですが、この世界には、「システム管理外」の世界が残されています。それは例えば「バグダッドの市場」であり、「戦地」であり、少数民族トゥアレグ」といった人達です。
 人類の99%が「システム管理下」において、何もかも自明な種族へと変貌を遂げたとしても、彼ら1%の「人間」にとってはそれは最初から問題にすらならない話です。バグダッドの旧市街の人間たちは明日も同じように生活し、また新たに生まれた人間ならざるものたちとも、なんらかの関係性をもったまま生活を営んでいきます。
 それにミァハが地獄をみた「戦地」であっても、極限から極限の二項対立から話を捉えると、この世界はそのどちらかしか選択肢が無いように見えますが、戦争だけに焦点を当てて考えてみれば、人類の歴史上戦時下でなかった時代などありません。一口に戦地といっても、そこには必ず濃淡グラデーションというものが存在します。そして悲惨な戦時下であるからこそ発揮された人間性、追求された理性というものも必ず存在します。
 そこには、未解決のまま残された、この「どうしようもない人間とは一体何か?」という問いかけを続ける、物語が残されているのです。私は人を人として認識できる唯一の方法は、こういう「人とは何かという問いかけを続けること」だけだと思っています。 
 そして「生府を信仰」だと見なした、ケル・タマシェク、人呼んで「トゥアレグ」の民がいます。「トゥアレグ」とは「神に見捨てられた民」であると述べられているように、彼らは北アフリカで生活しているアラブ人です。そもそもサーバと接続されていない彼らは「ハーモニー・プログラム」による「天使のひと撫で」により「意識」を奪われていないであろうことは、作品の冒頭から推察できます。おそらくイスラムを信仰している彼らのもとに、「メサイヤ」が鳴り響くことはなかったでしょう。
 そしてこちらは原作ですが、トァンが「日本」へと強制送還される際に、
 
 バイバイ・サハラ。
 また会いましょうケル・タマシェク。

 と語っています。
 これは、最終章でテキストの説明をする際、トァンがつぶやいた最後の言葉として、

 「さよなら、わたし。
  さよなら、たましい。
  もう二度と会うことはないでしょう」

 という台詞と対応しています。
 つまり、作品としてケル・タマシェクとは再び相まみえる可能性が残されているのです。

以上のトァンの「セカイ系」から漏れた人達、引き続き「人間」である存在は歴然として生き残っていることから、全人類的に見れば、我々は滅亡したわけではないことがわかります。

In This Twilight

  次に、その「ハーモニー」が永遠に保たれるのかという機能的な限界が考えられます。
 一度述べましたが、この作品が追求してきたのは、言語をその種族の特殊性として進化させてきた人間が、現状を敷衍化して突き詰めていった末に、言語による進化を結果として諦めてしまうという結論です。
 従って、この進化の過程で生み出された到達地点に至るまでの物語がこの作品であり、この先について考えることは可能です。
 例えば、「ハーモニー」内で暮らすものたちの中で、それこそ御冷ミァハのように偶然から「意識」のようなものを生み出すものが現れないとも限りません。また、すべてが自明で必要のためにのみ作り出されたとはいえ、これからその種族が生み出す、意匠、言葉、建築などの美術が一人歩きし、あらたな「言語」を作り出して、自らをさらに別のアプローチから進化させていく可能性は充分に考えられます。
 
 そして、原作者自身がインタビューで「その先の言葉を探していたんですけど、やはり今回はみつかりませんでした」、「現時点ではこういう結論にならざるを得ませんでしたっていうことで、途中経過報告みたいなものなんです。とりあえず問い続けていなければ話は進まないので」とおっしゃっているように、これを確定的な未来の結末であるなどとは一言も言っておられません。
 例えば今回こうして、映画に翻訳すること、映像として捉え直すことも「その先の言葉」を探していることに他なりません。
 残念ながら、伊藤計劃氏自身の次の作品を見ることはかないませんでしたが、「メタルギアソリッド ピースウォーカー」が原作者に捧げられたものであるように、この作品に影響与え、また影響を受けてあらたな「言語」による器質的な「進化」を探る活動は、我々人間によってずっと続けられています。私がこうして一個人の感想をまとめていることだって、僭越ながらそのほんの小さな活動の一部だと思っています。
 生前親交の深かった、円城塔氏が遺作を引き継いだ「屍者の帝国」などその最たるものですし、私はこの作品に確実に「その先の言葉」を見つけたような気がしています。 
 こうして、言葉と人間をめぐる進化の旅は続き、遺伝子だけでは伝えられない「ミーム」として、「意志」は「意識」は引き継がれて行きます。
 
 それでは、次回は映画としては最後になりますが、原作としては処女作にあたる「虐殺器官」がどういう風に映像化されるのか、楽しみに待ちたいと思います。
 個人的には、この作品が一番、今の世の中の空気感にぴったりですし、生々しい「言語」を強く感じております。

 

(約13000字)

 


[21] Nine Inch Nails - Hurt (Fuji Rock Festival ...

※映像に戦時中のショッキングなものが含まれていますので、注意してください。

私が今作を映画化するなら、この曲をエンディングにしたいなと妄想していた曲。

原作「ハーモニー」の各章のサブタイトルは、すべてこのアーティストの曲名から取られております。歌詞も「自傷行為による存在確認と、他者への承認を請う」内容であり、この曲がラストナンバーとして納められた、アルバム名は「The downward spiral」(降下する螺旋)。おそらく伊藤計劃さんもかなり意識されていたと思われます。

またアーティストであるトレント・レズナー本人も特別な曲とインタビューなどで述べておられ、主にライブでは最後に歌われます。私はこの人の大ファンで、このライブは当時見に行ったフジロックで雷が鳴り大雨が降りしきる中、壮絶に行われました。ですが最後に演奏されたこの曲が終わると、丁度雨が上がり、真後ろに白い月が出ていたのが今でも忘れられません。たぶん人生ベストライブです。

 

<参考>

伊藤計劃著『ハーモニー』文庫版

・<harmony/> 映画パンフレット