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「なでこSMILE」のアニメ感想BLOG

アニメや漫画などについての、自分の思いを記録するブログ

音楽を渡る橋

ポエム

初稿<2011/3/31>     
          
 彼が音楽をあれほど熱心に聞かなくなってから、すでに十年の月日がたった。今では地元企業に研究職員として入り、実家からバスで十五分ほどにある駅前の工業団地で働いている。もう車の中でしか音楽は聴かなくなってしまった。今は、エアコンの風の音しか聞こえていない。彼は変わったのだ。
 今日は四月にしては暑い日だった。毎年紅葉が見られるよりも早くに清掃費削減のため切り落とされてしまう新緑の西洋カエデが、アベリアとサツキの植え込みが続く歩道と車道を隔てる境に、等間隔に生えている。典型的な新興住宅地であるこの町の歩道は片側がやけに広く作られていて、赤いアスファルトは、車内からは見上げるように一段高くなっている。ガードレールで完全に区切られたその歩行者専用通路を、自転車の車輪から帰宅途中の高校生の首から下までが次々と覗いて見えた。その二人連れが同じ出身校の、自分のときとまるで変わらない制服姿だったことに気づいた彼は思わず目を背けた。ただ、自分が起こした事件のことについてぼんやりとは覚えている。でも現実感というものがまるで無くなってしまっていた。サツキ、アベリア。サツキで信号が赤になった。
「ラジオつけていいですか」
 運転免許を取ったばかりの友人Aが、後部座席に座っている「彼」の母親に一応確認をとると、地元FMラジオ局にカーステレオのチャンネルを合わせた。母親の顔は息子のそれと同じように、春の景色を眺めている表情のまま窓に固定されている。その様子に気づいた助手席の彼が一応、気を利かせてボリュームを少し触って音量を上げた。DJがリスナーの葉書を読み上げ、肩こりについての質問に自らの解消法を述べていた。それを聞いていると、彼はもうそろそろ自分も自動車の運転免許をとってもいいような気がしてきた。ちょうど信号が青になる。
 あの頃の彼はとにかく何をするにつけても音楽がないことには、なにも始められなかった。通学中には必ず愛用のMDプレイヤーで録音した音楽を聴きながら自転車に乗り、地下鉄に揺られながらカセットを取り替えた。それは右ポケットに常に忍ばせられていて、家のトイレにもいつも持って入ったし、一人で食事を摂るときにもいつも音楽を聴いていた。休みの日は自宅の部屋でそれこそ一日中、起きている間中、音楽を聴いていた。就寝時には暗闇のなかで、最後は必ず自らの手でプレイヤーをオフにするときに鳴る、小さな発信音で眠りに落ちた。
 そして先月、とうとう携帯デジタル音楽プレイヤーを買った。するとなおさらそれが加速した。これまで好きなCDをレンタルショップで借りてきてはMDに録音していただけだったのだが、クラシックファンである友人の父親から大量にCDを借りてきて、コンピューターにすべて取り込んだ。また近くに住んでいる六歳年上のバンドをやっている音楽マニアの従兄弟に、ありとあらゆるジャンル、年代もばらばらのCDを鞄に一杯詰め込んで借りてきては、同じことを繰り返した。百ギガバイトのハードディスクはあっという間に一杯になった。親からもらう小遣いはすべてCDをレンタルしたり買うのに使った。それらをプレイヤーに注ぎ込んでは、イヤホンで耳の中に次々に流し込む。風呂でも防水パックを使って、プレイヤーを持って入るようになった。こうして、彼が音楽から離れているのは、人と話す必要があるときや、学校にいるとき、そして眠るときぐらいにまで切り詰められた。
 両親が心配になりはじめた。だが、息子は最近実に生き生きとしており、むしろ以前より性格も明るくなってきていたので、笑ってすますことにしていた。反抗期の無かった無口な次男の奇癖として、過去の自分の体験を引き合いにだして、理解することにしていたのだ。悪い連中とつるんで夜遅くまで帰ってこなかったり、暴力的な振る舞いをするようになるよりはよっぽどいい。彼の兄が少しやんちゃだったために余計にそう思った。 
 彼はそのような両親の理解についてもきちんと自覚していた。しかし、その範囲内で済ませようという気持ちと、それをさらに超えて行きたいという強い思いが同時にあった。というのは、ここ最近、彼に言わせると、彼は加速していたからである。
 自分でもどんどん加速しているのがわかった。視界はいつもクリアであり、思考は草原を渡る風のように冷たく走り渡っていた。学業成績はどんどん上がっていた。
 彼に言わせればそれは当然のことだった。自分は、一日一日自分の頭がかしこくなっていくのを実感していた。もはや、ある「軸」を決めて物事を考えなくてすむようになったからだ。というのは、ある種の考え事があるとして、そこでいちいち立ちどまるから、余計な時間がかかってしまうのである。考え事に中心軸を作ってみても、そこから先に伸び出される思考の枝葉は、結局根っこの部分で地面とつながっている。だから、どう発展しても、かろうじてその先に結論の実をつけるだけだろう。それで自己完結してしまう。だったらはじめから軸なんか作らずに、猿が熱帯の木々の上を飛んでいくかのように、最初から次へ次へと枝だけを繋いでいけばいいのだ。そうすれば、問題の全体像それ自体が浮かび上がってきて、他との関連性も読み取ることができ、そこに最適な道筋を見極めることができるようになる。ほとんど全自動で。それはもはや木ではない。林でもない、森なのだ。自分は加速しているのだ。
 さっきまで自分の息子の学業の優秀さについての世間話を、夕食の買い出しに出た自宅近くのスーパーで、劣等感と妬みまじりの顔見知りの主婦としていた母親は、自室で巨大なヘッドフォンをしたまま喜々として勉強にいそしむ我が子に、お盆に載せた茶と饅頭を差し入れて、微笑ましく労をねぎらった、その返答としてのこの説明を受けて、困った顔をした。
 母親は別に成績があがっていることについて、そんなに喜んでいるわけではなかった。そんな話題はもう兄の代でさんざん味わわされていて、心底うんざりしていたからである。例えそれが自分の家族を持ち上げるものであろうとおとしめるものであろうと、結局最後は不愉快で割り切れない気持ちにしかなれなかった。しかし新興住宅地の進学区に住んでいる、子どもを持つ親たち、特に母親は往々にして、こうした世間の噂話というストーリーへの参加を強制されることになる。そしてそれは大抵の場合、作者としてではなく、あわれな登場人物としてであった。なぜなら、それがその共同体で暮らすために、必要欠くべからざる身分証のような役割のものであるからだ。それは洗礼であり、烙印であり、集落の文化儀礼であった。ここに住む者はみな、こうした共通認識を多かれ少なかれ共有していた。しかし、それなのにみな一様に自らの意志や感情を、率先してそこに表明しているように彼女にはみえた。そして、それが不快感の原因だろうと彼女はとらえていた。だが、同時にだからこそこの新興住宅地は進学区であり続けることができたのである。進学意欲のない人間の集まるところは進学区ではない。こうして進学意識を率先して持つこと、それを世代が変わっても刺激し続けること、それが進学意欲をかき立てる秘訣であり、その人間にこそ、この町でもっとも安楽で効率的な生活が約束されるのだ。しかし、これはそうした特殊性を参加者たちが共同体に与えるものというよりも、その町が周囲の町に対して負っている責任であった。町を外れ、丘を下った先に広がる国道沿いの旧市街では明らかに地域の学力は低下していた。そういう意味では町そのものが進学区的であることを要求していたのである。つまり、約束するのは町であって、住民同士ではなかった。彼らの興味は常に自分の子女の学力に向けられていて、他人の家のこどものそれはただの鏡にすぎず、本当はほとんどなんの感情も向けられていなかった。嫉妬や自慢も劣等感も約束のための仕掛けだった。だから、それゆえにここはこの町でありえていたし、住人は所属意識で繋がっていた。では、この町に責任を押しつけたのは誰なのか。そんなことは誰も考えもしなかった。その証拠に別の進学区のこととなると、詳しいことは誰にもわからなかったし、学校の名前すらほとんどわからないのだった。考えてはいけないのだ。それは学力の低下を意味する。
 だから、母親はただ純粋に、無口で内向的だった次男が最近楽しそうにしている。それがただうれしいだけだった。なので「あまりうるさい音はだしちゃ駄目だからね」とだけ答えて、息子の部屋からさっさと飛び出していってしまった。だから、これはまた全然別の話だと彼女は考えていた。だが、いつも近隣住民への配慮は徹底していて、外に漏れ出る音などないに等しいものだったのだ。
 そしてある日、彼は学校に行かなくなった。少し以前から、何かと理由をつけて登校を拒みはじめた。ドアの外からうかがい知れる彼の部屋の様子だと、毎日明け方近くまで起きているようであった。それでも、初めは寝不足の青い顔をしていたが、きちんと用意をして出発していった。しかし、欠席する頻度が週に一度から二度になり、ある週には体調がすぐれないと強行に言い張って全てを休んだ。 
 そしてついにある朝から、登校時間を過ぎても彼の部屋のドアが開かなくなった。休む理由や弁明すらしなくなり、昼過ぎや夕方ごろに起き出してきては、何食わぬ顔で居間に現れると、適当な食事を冷蔵庫などで見つくろって(もちろんイヤホンをしたまま)また自室へと戻っていくのだった。ドアに近づいてみると、ヘッドフォンから漏れ出る音楽の音が一日中微かに聞こえていた。
 両親がいよいよ心配になりはじめた。まるで息子は、何かにとりつかれたように音楽に齧り付いている。これは、明らかに奇癖や常識の限度を超えていた。もはや笑って見過ごしているわけにはいかない。完全な不登校になって三ヶ月ほどたったある日、普段物静かな父親がとうとう怒鳴った。
「一体お前はどうしたんだ。勉強もまるでしていない」
 久しぶりに入った息子の部屋の中、そんなときにすら彼は耳に文庫本ほど大きなヘッドフォンをしていた。そのころはまだ、部屋の鍵はいつも開いていた。
「どうしてそんなに心を閉ざすんだ。音楽ばかり聴いていてもなににもならない」
 それを聞いた瞬間、彼は不満を隠そうともせずに大きな声で反論した。
「それは違う。僕は心を閉ざすつもりなんかまるでないんだ。もちろん、開いているってわけでもないのだけど、とにかく今耳を澄ましているだけなんだ。どうしてかというと、僕は今、音楽を聴けているからなんだ。そして、それはようやくわかりかけてきたことであって、ここまで苦労して築きあげてきたものなんだ。でも、だからって明日も同じように聞ける保証なんかどこにもないんだ。だって明日の保証がある人間なんかどこにいる。眠っている間に突然死してしまう人がいったい年間何人いるか知ってる。僕は知らない。でも僕が来年も生きてるかどうかなんて誰にもわからない」
 自分の息子がこれまで、こんなに早口で自分のことを話す姿を見たことがなかった父親は面食らった。返答の意味も一切わからなかった。ただ、こうして目の前で、頬をやつれさせ、何か別のことを考えているらしく、目だけを落ちつかなげにきょろきょろさせている青い顔と、一日中カーテンの降りた異様に綺麗に片付いている部屋の様子と、そして何よりも我が子が死という表現をためらわずに用いたことに、激しく動揺した。これは絶対に間違っているのだ。
「お母さんは、最近お祈りに行ってるんだ!」父親がこれまでで聞いたことのないほどの大声を張り上げた。すると彼は驚いた表情になって意識がその場に固定された。そして顔が真っ赤になり、手がぶるぶると震えだした。なんていうことだ。それはフェアじゃない。まだ話すら始まっていないというのに。それだとまるで自分が両親の事など何も考えていなかったみたいではないか。自分の挑戦は、実験は決して自分のためだけのものではないというのに。しかし、何も言わなかった。「学校に行くことはおまえの仕事なんだ。ただ勉強ができるだけじゃ駄目なんだ。行かなくてはいけないんだ。それなのにおまえは遊んでいるんだ」父親は叱った。こんなに激しく叱ったのはおそらく初めてのことだった。二人とも頭に血が上り、それからしばらく真っ赤な顔をしてお互いにらみ合った。彼は興奮して泣いていた。が、本当に悲しく思い、心配して泣いているのはどうやら父親であるらしいことが、そして父親の言葉の陰に母親の憂鬱そうな顔が、その涙を流した姿が思い浮かんでいることが彼には、はっきりと見えた。
 それが実は彼を一番苦しめていたことであった。それを批難されるということは、自分の正当性を支えている木々を、すっかり切り倒されてしまうことだった。まるで森など今までもこれからも存在していないかのような気分だった。猿は気がつくと、草原に一本だけ生えた木にぶら下がっていた。そして、三分間でもうすっかり決着を、まだたった開始三ヶ月でつけられたように思えた。やはりドアに鍵をかけるべきだったのだ。それが間違っていたとしても。
 彼はもうしゃべれなかった。仕方がないので、頭のなかで話しかけた。
『でも、もうすぐなんだ。
おとうさんには僕がまるでただ音楽を聴いているだけのように写るかも知れない。
でもそうじゃないんだ。
僕は音楽を聴くことで、聞くこと自体で、今まさに作り上げているんだ。
もう少しなんだ。』
 その日から彼は部屋に鍵をかけて、誰とも口をきかなくなった。室内はいつでも不気味なほどしんと静まりかえっている。両親はもう何も言わなかった。食事は母親が部屋へ届けた。しかし、ほとんど手をつけていないようだった。これまで近づけば少しは漏れ出ていた音も聞こえず、廊下にこぼれる明かりもついているのかわからないほど微かだ。誰もが寝静まった深夜か外出中に隠れるようにして用を足しに出入りしているみたいだったが、あれ以来その姿を見ることはできなかった。一度心配した兄が帰省して、なんとか弟へ話をしようと試みたが無駄だった。ある日、ドアの外に何かが落ちていた。反対向きに折れた携帯電話だった。
 そして季節が秋から冬へと完全に変わったある日。深夜の暗い台所でプラグの抜けたヘッドホンをしたまま、呆然と突っ立っている彼が母親に目撃された。そして、親戚が何人か家に呼ばれ、最後に友人であるAが呼ばれ、彼の部屋をノックした。
「俺は最近思うんだけど。やっぱり人生の目的ってのは、好きな女を探すことだと思うんだよ。あれこれ考えてみたんだけども、一生懸命働くのもいいし、趣味だってあろうが無かろうが別になんだっていいんだけどさ、とにかく一緒にいたいと思う女性と出会って、愛でもなんでもいいんだけど、相手と二人でいれればさ、もう全部問題ないと言っていいと思うんだよ。だって誰がそれに文句をつけられる?」
 二人は、気が向いたときにだけ通る、町の一番外れにある歩道を歩いていた。煤けたガードレールの背中のすぐ脇を、ここらでは一番機嫌良く車が速度を出して駆け抜けているのは、道が緩やかで長く、信号も少ないせいだ。フェンスの先は木々の頭でよく見えないが、何本か国道へと至る傾斜の急な道路やスロープにさしかかると、墓地や水路が現れる。だが何回かカーブしていて、林に阻まれて先まで見通すことはできない。反対側の歩道はやはり一段高くなっていて、計画的なジョギングコースになっており、距離表示のプレートが植え込みからつきだしていた。二人はいつものように陸橋を渡って、その先にある高台の古墳公園に出た。するとこれまで部分部分にしか見ることのできなかった、平野の景色が一気に開けた。丘を平らに削り取った跡地に計画都市として作られたこの街のはずれは、ぐるりと一週、坂になっており、古代ギリシアアクロポリスのような風貌を持っているのが実感できる。河原ばかり広い小さな川に二車線ぎりぎりの橋。その場所は昔の彼らの秘密基地だった。その先には田畑がどこまでも遠く広がり、古い民家が何軒か静かにたたずんでいる。もう夜半近かったので、遠くの国道を水田を切るように車のヘッドライトが進んで行き、コンビ二の明かりと混ざった。
 この坂を境界として建物も時間も何もかもが極端にずれていた。日本家屋と牛舎まである様子は完全に田舎で、それを住民に指摘しても誰も文句は言わないだろう。地層と同じでいくつか存在しているその斜面すべてがこちらの町とあちらの町の、時間の滑り台であり、文化の階段であった。そして視界の最後、空を遮る山の中腹には高速道路のオレンジの電灯が列を作っている。友人Aは地面でタバコを消して、プラスチックで再現された灰皿と化している古代人の棺のなかに投げ捨てた。
「だからこそ車の免許を卒業したらすぐにとって、山へドライブへ行ったり、遠くの海を見に行けるようにする。自分で運転してな。今みたいに電車を乗り継いでどこかへ遊びに行くのはもうごめんだ。地図だけをみてな。最近の自動車はカーナビがついてるから、それこそどこへだって行けるぜ。全然行く必要のない、見たこともない、でも面白くもくそもない湖や村にだって行ける。ガソリンが切れて、立ち往生なんて、そんなアメリカみたいに広い国じゃないからな。故障や事故さえしなければ迷ったりすることもなく、戻ってこられる。しかしさすがに車を買うことは難しいだろうな。よっぽどアルバイトしないことには。だから仕方なく親の車を借りるしかないわけだ。いやしかし寒いな。もうきれいに冬だな。おまえの好きな季節は冬だったな。でも夏もいいぞ。しかし、こうしてなんでもしゃべれるからやっぱりおまえは最高だな。だって何にもしゃべんなくなってるんだもんな」彼は一人で笑うと、またタバコに火をつけた。
「今年の獅子座流星群はやめだ。でも気にするな。気にしてるかどうかすら、さっぱりわからないが。だってしゃべんないからな。でもとにかくオレはこの町が好きだよ。まだ当分出ない。だから、ほれ」
そして彼はタバコの先を高速のある山の方へ向けた。もう夜なのでそこには何も見えなかった。
「ちょっとま、あっこにいろ」
 翌日、彼はサナトリウムへと入れられた。 音楽はすべて取り上げられ、彼に静寂が与えられた。彼は、病院でたびたび騒ぎをおこした。昼間はやはり全く何も話さず大人しかったが、夜ベッドに横たわっていると、不安に駆られて、マットレスを殴りつけ、おう吐した。ここは彼には大変やかましかったのだ。ここは彼のマンションのある高台とは違い、開拓などされていない本物の山の中だった。あたりは野生の未整備な木々に覆われて、夜になると墨のような暗闇に取り囲まれた。院内の喧噪が収まり、森の動物たちの気配も静まりはじめると、音楽が毎晩のようにどこからともなくやってきた。それは彼がこれまで聞いてきた大量の音の断片やフレーズで、耳の奥で大音量で鳴り響いた。同じ小節が何度も繰り返され、それが全く違う音に繋がったり、そうかと思うと急にボリュームが絞られて、聴覚検診のような小ささになった。音質が代わり、途切れない旋律だけが終わることなく続いたかと思うと、あるリズムだけが残っていて、それはすでに去っていた。今度はそのリズムがどんどんテンポを上げて行き、そしてまた最初の聞きたくもない小節が再開された。
 この状態は激しく彼の神経をかきむしり、意識を乱した。今まで、音楽を聴き通しだったというのに、突然それを止めてしまったから起きた症状だった。ちょうど長い時間船に乗っていた人間が、久しぶりに地上に降り立つと、まだ波の上にいるかのように地面が揺れて感じられることがある。それと同じことだった。そして、それは時に船上にいるよりもつらいことであった。なぜならもうどこにも降りるべき陸地がないからだ。
 しかし、彼はもう全く話せなくなっていたので、やはり頭の中で叫ぶしかなかった。この荒ぶる神経の苦痛を早くなんとかして欲しい。そのために彼は身振りや動作でそれを表現するしかなかった。そのジレンマがいっそう彼を追い詰め、緊張を強い続けた。彼は頭の中で訪れた医師に賢明に訴えかけた。話しかけ続けた。ある意味では、彼はこれまでで一番雄弁で早口であった。ここは住宅地ではなく、あたりは本物の森の中だった。彼の思考もここでは、思う存分に広がり続けていた。意識の森は今や完全に青く輝いて見える気がした。実験の枝葉は高速で伸び続け、新しい木々がビデオの早回しのように次々と生え育っていった。しかし、肝心の猿はどこかに立ち去ってしまっていたようだった。だから、彼には自分の頭が独立して勝手にしゃべっている気にさえなった。それを自分が医師のように聞いているのだ。これで伝わらないのでは、物事の道理が合わないような気がした。しかし声は出なかった。
 一月ほどしたある日、両親が病院を訪ねてきた。その頃になると、彼は落ち着いてきたかに見えた。医師もそう説明した。「ここ何日か安定しています。もう激しく暴れたりすることはありません」病室へ行くと、少し大きめのベッドの上で彼は静かに眠っていた。顔色も前よりはよくなりつつあるようだった。その様子を見た両親は安心した。その翌日、彼は病院から姿を消した。前の晩、彼は久しぶりに大きな発作を起こして、部屋中を這い回った。潮の満ち引きと同じだった。彼の船酔いは、再びゆっくりと揺り返してきたのだ。まだ決して治ってなどいないのだった。窓に近づいた。見舞いの日から、病室を替えられたが、外は相変わらず木々の暗闇だけの同じ景色だった。再び鳴り響きはじめた大音響の中、彼は耳を押さえながら、ナースコールのボタンを押そうと壁際に近づいていった。すると、かすかに車の走行音が聞こえた。壁に耳を近づけると、うっすらとではあるが、エアコンの排気管の方角から、確かに自動車がアスファルトを擦っていく音が聞こえていた。かなりのスピードを出しているようだ。それは近くにあるはずの高速道路の音だった。今日から部屋を代わったために聞くことができたのだ。
 翌朝、近くのホテルに滞在していた両親に知らせられ、すぐに警察へ捜索願が提出された。彼はどのようにしてか、一度自宅へ戻ったようだった。居間に隠してあったはずのデジタル音楽プレイヤーがなくなっていたからだ。しかし、その日に彼を見つけることはできなかった。
 彼は暗闇の中、ひとり水面を見つめていた。そこは小川にかかる小さな橋の下だった。あたりに散らばる流木やゴミなどの漂流物を、手すりに据え付けられた街灯の光が照らしている。水にも白い光が塗られていた。しかしここへは直接差し込んではこない。自分の姿は闇に紛れて、他の何よりも輪郭がぼやけていた。土手に生い茂る雑草から先は、暗い屋根に遮られている。谷間になっていて、屋根が左右を覆うこの場所は、川沿いのあぜ道からも車道からも伺うことはできない、秘密の空間になっている。風は直接当たらなかったが、雪が降ってもおかしくないほど、ひどく寒い日だった。
 トイレの窓から抜け出すと山道を高速まで歩き通した。その間、彼は本当に久しぶりに何も音楽を聞かないですんでいることに気がついた。聞こえているものは車の走行音だけだ。その音も耳鳴りと同じように、遠くから聞こえてはくるのだが、おしまいにはきちんとどこかへと去っていった。自分の話声さえも鳴らなかった。見知った田舎道へ出ると、高速道路の橋桁へたどり着いた。国道と十字に交差した自分の頭の真上と真横を深夜にもかかわらず、何台もの自動車の光と音が、いろんな方向から現れては遠ざかっていった。彼はしばらくのあいだガードレールに腰掛けて、その様子をぼんやりと観察していた。そして、なにやら決心すると、そばにあった鍵の掛かっていない放置自転車の一台にまたがって、自分の家へめがけて一心不乱に進みはじめた。コンビニや古民家を通り過ぎて雑木林が晴れるとと、景色が開けたところに出た。遠く丘の上に、朝もやのなか光を放つマンションの群れが姿を現した。それはいつもと逆向きの景色だった。彼は最後の坂を駆け下りると、そのまま広い水田の田舎道を走り抜けた。神社を横切り、橋を渡るとそのままのスピードでいっきに登り坂を駆け上った。 用事を済ませてさっさと家から外に出た彼は、結局人目を避けるために古墳公園で夜を待つことにした。七年前、この町ができたときは新品だった遊具も、盛り土の上の棺も相変わらずぼろぼろだった。だがもう行政に修繕費用を捻出することは不可能だった。三年前に起こった地震で財政は一変したのだ。高台にあるにもかかわらず、ここは人目に着く心配はあまりない。真冬にこんな町外れの公園のベンチにわざわざ座る人間は、この町にはいないからだ。不良ですらミニバイクでトンネルを駆け下りて国道から旧市街に繰り出すか、駅前から電車で別の町に向かう。二カ所ある入り口だけ注意していれば、それで見張りは十分だった。そして夜がやってきた。別の場所へ行くことも考えたが、やはり自分には最初に思いついたところ以外にどこにも行くべき場所を思いつけなかった。
 そして彼は、ちょうど潮目に寄せ集まるゴミのように、国道沿いの田舎の方へと再び引き寄せられていった。新市街と旧市街の境界線。偏差値のグラデーション。丘の下の小川へ到着した。 
 ダンボールの切れ端を尻に敷いて、橋のたもとにもたれかかる。自宅で適当に少し食べただけで腹も減っているはずなのだが、疲れすぎたせいか、食欲を全く感じなかった。慌てていたので金も持ってきていない。彼はダウンジャケットのジッパーを引き上げ、寒さに震える体に袖をたぐり寄せると、フードを目深に被った。
 そして一呼吸して、斜面にゆっくりと横たわった。はき出された白い息が光にあたって、離れたところでようやく見えた。
 そして寒さにおぼつかない指で、イヤホンをなんとか耳に入れた。そしてポケットの中でシャッフル機能に設定した携帯音楽プレイヤーの再生ボタンを押した。耳の奥で小さな発信音が鳴った。

 一曲、二曲、三曲目。
 そして四曲、五曲と年代も地域もジャンルもばらばらの音楽が、耳の中に流れ込んできた。
 彼は目を瞑った。
 六曲、七曲、八曲目。
 彼はずっと思っていた。これらを同時に、まったく同じように聞くことはできないのだろうか。
 九曲目、十曲め・・・。
 十一曲目で、彼は数えるのをやめた。
 今、目に映っているのはまぶたの裏の暗闇だった。その先には橋の屋根があり、電灯の光りを遮っていた。その電灯のずっと上には夜の空があった。でも今日の天気をあまり思い出せなかった。
 彼はその中にいた。
 久しぶりに聞く音楽は素晴らしく、古い音はしっかりと新しい音へと次々に振動を繋げていった。まだ聞いたことのなかった曲、よく知っている曲、どれも新鮮に豊かに響いた。そのどれもが、それぞれ永遠に続いていくように感じた。一度終わっても、まだまだ終わりがないように思えた。ふと、一回しか聞けなくても、何百回聞いても、どちらにせよ同じなんだと思った。それはかつて自分が挑んでいた謎に対する答えのひとつになるかもしれなかった。だが、やはり自分が欲しかったのは、疑問に対する回答ではなかった。望んでいるのは音楽を聴くこと、本当にただそれだけだったのだ。時間は、音楽が進む同じ分だけをきっちりと過ぎていった。
 それがどれだけのあいだ流れたのかわからない。彼は静けさに包まれていた。ここは本当に何も聞こえない、何も見えない場所だった。美しかった。その静けさがどれだけ美しいかが、本当によくわかった。音楽は流れ続けていた。でも一人であった。だから、静かなのかもしれなかった。どうしてもその可能性を否定しきれなかった。それに、やっぱりここは寒い。聴覚以外の感覚はほとんど麻痺していた。自分のつま先がどこにあるのかも、よくわからなくなっていた。だが、どちらにせよもう彼に音楽を止める気はなかった。ただ、まだ自分は音楽を聞くことができている。それは間違いなかった。間に合ったのだ。ならおしまいまで、聞けなくなるまで聞いてしまおう。それが彼の決意だった。だんだん孤独だけがくっきりとあたりにまとわりつきはじめた。体中から力が抜け、どこからか水が漏れているように気力や刺激が減り続けていた。もう起き上がれる気はしない。だが今、自分がまさに音楽を作り上げている感触があった。ならすべてはこれでよかったのだ。彼はそのまま、深い深い黒色を目の前に浮かべはじめた。

 眼をさますとそこは病院ではなく自宅のベッドの上だった。時計を見ると、深夜だった。あれから一体自分がどうなったのか、はっきり覚えていなかった。携帯音楽プレイヤーも手元にあった。しかしどういうわけか一曲もそこに入力されていなかった。棚のMDラックに眼をやってみる。すると背中のラベルが全てはぎ取られていた。そしてパソコンを点けようとして、やめた。たぶん一曲も入っていないだろう。覚えていないけどわかった。全部自分が消したのだ。あのあともう一度目に写ったのは、友人Aの姿だった。涙を流しながら彼の服を揺さぶっていた。自分はとうとう、友人までも泣かせてしまったわけだ。その事実だけが胸を占めていた。記憶にあるのはそこまでだ。その他のことは思い出す気にすらなれなかった。
 だが彼はそのとき、友人Aに縋り付き、嗚咽しながらこう話していた。途切れがちだがしっかりとした声で一息にしゃべっていた。「僕には無理だった。結局、僕は音楽そのものよりも、自分の方が、音楽を聴いていることの方が好きな人間だったんだ。わからないことよりも、わかることの、わかれそうなことで、まだ知らないことでしか、未知の境界を超えていこうとしていなかった。それはたぶん初めから、そうだったんだ。でも、これが最後の機会だってわかっていたから。それに、それならせめてそれぐらいはしなきゃって、今しかもうそれができないってわかっていたから決めたんだ。それなのに、君がきてくれて、本当に助かったと思って安心しているんだ」彼の目覚めた様子に、ほっとした友人は言った。
「そうか。おれはそうだと思ってたよ。だって、今年の獅子座流星群は今日だからな」
 しかし、今日は曇りだった。夜の空は暗闇で覆われていた。だが流星群は雲の上で流れていた。彼の耳の中で聞こえ続けていた音楽は終わった。
 買い物の帰りはもう夕方になっていた。
 友人の運転は免許取りたてにしてはうまいものだった。町の一番外れの道を、ガードレールに添って車は家へ向かっていた。
 左手に古墳公園が見えてきた。夕日を浴びて、新芽の丘はみずみずしい命を周囲に解き放っていた。赤と白のサツキがひとつの植え込みの中にまだらに、好き勝手に生えていた。ほとんど、葉を覆い隠すように上から下まででたらめに咲いていた。
 「綺麗ですね」、どこがだよ。友人と母親との会話をぼんやりと聞きながら、彼は旧市街の方に目をやった。さっぱり綺麗には見えなかった。だが、話にはなる。
 もうところどころの水田には水が張られ、年末に区画整備された国道は行き交う車で一杯だった。その近くにはまた新しい飲食店ができていた。山の中腹。高速の向こうに、自分がいたはずの建物が少しだけ見えた。そこは今は建て直されてされて老人ホームになっていた。
 車はガードレールに添って緩やかにカーブを進み、ようやく自宅に到着した。狭い駐車スペースにバックで駐車をするのだが、友人の運転はどこかまだ危なっかしかった。
「あれ、どっちにきりゃいいんだ」
 まだ彼らが生まれる前の、三十年前のアメリカの曲が流れる車内で、友人は何度も何度も切り返しを続けた。彼は隣であれこれ指示をしていたが、最後には下りて後ろから誘導することにした。すると、急にエンジンが高鳴って、自分のいるバックに向かってぐっとスピードが出た。彼は驚いて両手でボンネットを叩くと、そこから飛び退いた。バンパーは後ろのコンクリートブロックぎりぎりで止まった。
「おいおい、頼むからぶつけないでくれよ」父親が先月買ったばかりの新車なのだ。
 エンジンを切ると同時に、エアコンは止まった。
 


ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 特報 2012/07/28

                  
(約13000字)
                  
inspired by
カフカ『断食芸人』
バージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』

influenced by
京都アニメーション『聲の形』