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「なでこSMILE」のアニメ感想BLOG

アニメや漫画などについての、自分の思いを記録するブログ

天使の羽根

初稿<2009/5/30>
第三稿<2015/07/12>


 京都の友人たちへ


 <第一章>

「天使に用はない」
 僕は目の前に現れた天使の横を通り過ぎる。
 そうだ。早く部屋に戻って暖かくして寝るんだ。今そんなもんの相手をしている時間はないのだ。
 頭がフラフラする。こりゃ熱も高いぞ。
 いかん。なんだか視界も歪んできた。
「あの、ちょっとお待ちになってください」
 白い天使のようなワンピースを着て、白い天使のような羽根をひらひらさせながら、天使は慌てて僕の後についてきた。街灯の明かりのなかで黄色い髪が揺れる。
 玄関の前に立ってポケットの鍵を探っていると、息を切らせながら天使が階段を上ってきた。
「はあ、はあ、すみません。待ってください。少しお話を聞いていただきたいのですが」
「いかん。めまいがする。吐き気もする。鍵どこだっけ」
「鍵なら持ってるじゃないですか。それじゃないんですか」
「あ、ホントだ。持ちながらにして探していた。サンクス。うー寒い寒い。くっそー時間がない」
 ドアを開けて部屋の中に転がり込む。そしてとにかくコタツのスイッチを入れた。
 薬を探して台所の棚をひっかき回していると、天使が玄関に入ってきた。
「あの、大丈夫ですか?ひどい顔してますよ」と心配げに尋ねる天使。
 洗い物をしていなかったので、薬を口に含み、水道から直の水で胃に流し込む。
ゴッホ、ゴホッ。風呂は朝入るとして、すぐに寝るか」
「お茶入れて差し上げますね。お茶っ葉はどこかしら?」
「あー下の引き出しだよ。ポットは後ろ」
 こぽぽと急須にお湯を入れてもらってる後ろでパジャマに着替えた。
「明日は六時におきる。そしてシャワーを速攻で浴びて、二時間でレポートを書く。そしてタクシーで学校に行けば間に合う。それしかない・・・ゴッホゴホ・・・」
「お茶が入りましたよ。梅干も入れておきました。はいどうぞ」
 お茶を受け取ってコタツで飲む。
「ふぅぅ・・・あったけー。うううむ」
 天使がコタツにお盆を乗せた。そして僕のおでこに手を当てた。
「かなり熱いです。きっと熱が高いんです。早くお布団に入られたほうがいいですよ」
「ううう寒い。ふらふらする。コタツで寝たい」
 僕はコタツにもぐりこもうとする。
「駄目ですよそんなところで。普通でさえ風邪を引いちゃうのに。さあ早く出なさい」
 僕は右腕を引っ張られ、ずるずるとコタツから引っ張り出された。
 そしてそのままベッドに寝かされた。
「ううう寒い。全然温まってない。温まるまでが問題なんだよベッドが。地球温暖化とおんなじなんだ。早いとこ手を打たないとまずいんだ。待ったなしなんだ」ぶつぶつうわ言を言っていると、めまいで天井がぐるりと大きく回転した。
 台所の方からがさごそと音が聞こえてきた。その音もなんだかくぐもったような変な感じだった。
「だから、地球をひとつの生物として考えるガイア理論によると、つまり温暖化は風邪のようなものなんだ、と。だから早く温めなくちゃならないんだ・・・。あれ、これだと結論が逆になるな。冷やすべきは体温のほうだから。我々は頭を冷やして、温暖化問題について考えねばならない、と。いいね。一時間で書けるぞ」
 どうもさっきからシャワーの音がする。そういやタオル借りてもいいかしらと言ってたっけ。
 目をつぶるとまぶたの裏の暗闇に、シャワーの音に合わせた光が踊った。

「のどが渇いたのすけ・・・のどが渇いたのすけ」
 掛け時計がぼーんぼーんと時間を告げる。九時か。はあはあと荒い息をしながら、唾を飲み込んだ。すると頭にひんやりとしたものが乗せられた。冷たいタオルだった。
「お水お飲みになりますか?どうぞ」
 天使に抱え起こしてもらって座る。冷たい水を勢いよく飲み干す。目の前の天使の着ている僕のTシャツが目に入る。
「はあはあ・・・ふぁっく・・・ざ・・へぶん」
 僕は胸に書かれている字を読み上げた。

 ぼーんぼーんと時計が十二回鳴った。
 寒い。そして意識はどんよりとしているのだけれど、なかなか寝付けなかった。
「うーん寒いよう。寒い。寒いすたんぶーる。寒いーすたー島。・・・うふふ」
「こまりましたね。熱が上がっているみたいです。」
 深刻そうな顔をした彼女の顔が目の前にあった。
「美人薄命・・・」
「ちょっと・・・急なにを言うんですかもう!」
 べちゃりと水のしたたるタオルを顔に叩きつけられた。
「うううううつっ冷たい。・・・切ない」
「あ!ごめんなさい」
 急いで別の乾いたタオルで彼女が拭いてくれた。そして硬堅くしぼった新しいタオルを額に乗せてくれた。

 それからも一向に寒気は収まらなかった。相変わらず体のふしぶしが痛み、全身の肌がひりひりとした。
「うーん弱りましたね」
 天使が腕を組んで真剣な顔をしている。そしてすっと立ち上がった。
 うんうん唸りながら寝返りを執拗に繰り返していると、掛け布団の裾がもちあがった。
「寒っ」
 冷たい外気が布団の中に入り込んでくる。
 本当に暖房は点いているのだろうか。
 そしてごそごそと猫のようにもぐりこんで来んでくる天使。
「何?何?」
「私が敵を引き付けます」
「うん?」
 ・・・敵?
 もちもちとしたものでベッド中が埋まった。
 これは女の肌だ。ティーシャツ一枚だけ着た。最高だぞ。ふらつく頭が頑張って僕に男を訴えかけていた。
 それはすごいな。ナイスだ。
 しかし今は猫を抱いているような気持ちにしかならなかった。
 狭くて身動きが難しくなったが、しっくりと位置が定まって心地よかった。
「・・・アタッチメント?ごほ。羽根?」
「小さくできるんですよ」
耳元でひそひそとする声にぞくぞくする。
 シャンプーの匂いが鼻をくすぐった。
 しばらくするとじんわりとした熱が伝わってきた。
 それにつれて寒気が序所に薄れていった。
 そして僕の口から出る言葉はだんだんと「寒い」から「熱い」へと代わっていった。
 汗をかいたので天使に着替えを手伝ってもらう。
 そしてようやく意識が遠のいていった。

 遠くでぼーんぼーんと音がする。
 その音は十一回を数えた。
 急いで起きなくちゃ。
 提出期限が九時だから二時間ですべてを終わらせなくてはならない。ベッドで勢いよく身体を起こした。
「楽勝楽勝。書くネタは決まっているんだ」うふふふふ。
 うふふふふふふふふふ。
 時間が合わない。
 うひひひ。
 ・・・終わった。
 僕は力なく再び倒れた。
 何気なくコタツに目をやるとコタツ布団から白い羽根がのぞいていた。
 あれ?
 体を起こす。すると額からタオルがずり落ちた。
 何か重大な、驚愕の事態が起こっている気がする。
 昨晩のあれはやっぱり熱に浮かされていたからではなかったわけだ。
 もちろんいくら熱が出ていても、それぐらいのことには気づいていた。でも、今日のレポートのことと熱とでそんなことかまってられなかったのだ。
 勧誘かなんかだとは思ったけど、なんせ天使だったし、面倒だから考えるのをやめてしまった。
 女の子なのはまあいいとして(いや最高にいいとして)、このはみ出た白い羽根はなんだろう。鈍りきった頭に昨日彼女が初めに言った台詞が蘇った。
 「こんばんは山川さん。遅くなりました。私が天使のミカエルです」
 そういってたしか空から舞い降りてきたみたいだったが。
 僕は首をひねった。
 頭に手をやる。熱は下がったようだが、まだ身体がかなりだるかった。
 どうせ宗教関係だろう。それは間違いない。
 「・・・さ、頭切り替えて明日のレポート頑張るか」
 僕は次なる現実という名の下、逃げれそうなのでこの現実からは逃げることにした。
 
 服を着替えて、少し部屋を片付け、シャワーを浴びていると、単位を落としたショックが身に染みてきた。くっそ。卒業までの単位がギリギリなのだ。いらいらしながら部屋に戻る。もう就職の内定も出ているというのに。この白い羽はなんだ!この羽は。
「おい、風邪引くぞ」
 僕は少し邪険に羽根をつっついた。
 反応なし。
 触る。
 滑らかなつるつるとした感触がした。でかい鳥をなでた感触そのままだった。
 両手でちょっと強めに引っ張ってみた。すると嫌がるようにコタツの中に引っ込んだ。どうみても作りものには見えなかった。くそ。
「昨日、コタツで寝ると風邪を引くなんていってたのはどいつだったっけ?・・・失礼」 
 僕は掛け布団をめくった。ほんのりと赤い赤外線に照らされる丸まった背中がみえた。猫かこいつは。
 あ!Tシャツやぶりやがって。羽を出すとこだけきれいにハサミを使って。くそ。
 肩をゆすると、「ううん?」という声がしてもぞもぞと体が動いた。
「う・・・ゴッホゴホ・・おやよう・・グズッ、ございます」
 熱っぽい潤んだ目をして、赤い顔がこちらに向けられた。
「だめだこりゃ」
 僕はため息をついた。


 <第二章>

 僕は机に向かっていた。
 机といってもこの部屋にはこたつしかない。ノートパソコンを引っ張ってきてぽちぽちと明日のレポートを打っているのだ。
 後ろのベッドでは天使が眠っている。
 時計は午後三時近くをさしていた。

 あの後、僕はベッドのシーツを替え、そこに天使を寝かせるとミルク粥を作った。
 それとハチミツを入れた紅茶を淹れた。
 こんなもの今まで自分のために作ったことがない。
「うむ。熱がやっぱりあるな」
 僕は三十七度八分を表示している体温計を見ながら言った。
ゴッホゴホ、大丈夫ですよ。喉が渇きました。ゴホ、あまり心配しないでください。ゴッホ。トイレ行きたい」
「謙遜のすき間に、本音が飛び出してるぞ。あんま無理するな」
 僕はトイレに連れて行ったあとこたつに座らせてミルク粥と紅茶を配膳した。
「・・・・・・なんだか。小洒落てますね。おいしそうです」
「ああ。まあパンを牛乳とバターと砂糖で煮ただけだけど」
 僕もこたつに座る。
 当然自分も風邪を引いているので同じものだ。
 いただきますをしてから、二人ミルク粥を食べ始める。
「・・・うん、あんまりうまいもんではない」
 僕はつぶやいた。
「そんなことないですよ。おいしいです。熱のせいかあんまり味しないですけど・・・・・・・でも梅干が食べたかった。」
「ちょっと。なんだね君。オレだってお粥と梅干がよかったんだよ。
でも天使だということで気を利かせて洋風の病人食にしたんだよ。
魔女の宅急便を参考にして」
 僕はどなった。
「ええ、大変おいしいですよ。魔女の宅急便でキキが食べてましたもんね。」
「そうだよ。おいしそうだったろう。あの後魔力がなくなっちゃうけど。でもああいった周りの人の助けがないと魔力なんて一生戻ってこなかったと思うよ。ごほ。
だからあのミルク粥は魔女の力にとって重要だったんだよ。だからぴったりだと思ってさ。シチュエーションが」
 紅茶を飲みながら言う。
 天使はじとーっとした目でこちらを見た。
「シチュエーションですか・・・。その前に、あれは魔女ですよ。私はその、天使なんですが」
「ああそうだっけ。あははごめん、天使が出てきて看護されるアニメを見たことないからよくわからん」
「・・・やっぱり梅干とごはんのお粥がよかった」
 天使は呆れたような顔をした。
 それでも全部ミルク粥を食べて、紅茶を飲んだ。

 それから今に至るまで、僕は哲学の試験レポートに取り組んでいる。
 なんとかこの親鸞についての二000字のレポートの結論を地球温暖化にもって行こうとしているのだ。
「つまり、悪人でさえ救われるという彼の説は、誰にでも等しく温暖化の影響がある、ということと同義である。よし」
 せっかく考えたひとつの筋道をあきらめる手はない。
 世の中サンプリングとインスパイアだ。

 少し疲れたので休憩をとることにした。そういえば昼ごはんもまだだったし。
 僕は軽く伸びをすると天使の方をみた。
 天使は先ほどからぐっすりと眠っているようだった。
 静かなものだ。
 そのとき玄関のチャイムがなった。
「はい、なんでしょうか」
 僕はドア越しに話しかける。
「なにレポートの提出日に休んでんだよ」
 覗き穴を覗くと谷口だった。
 さてどうしよう。なんで携帯で連絡してこないんだこいつは。馬鹿じゃないだろうか。上がりかまちを見るが自分の靴しかない。どうやら天のすけは裸足で来たようだな。
 僕はドアを開けた。
「よお。ごっほごほ。風邪引いたんだよ」
 僕はわざとらしくせきをしながら説明する。
「なんだ。風邪かね。そんなことで二単位フイにしたのか。頑張って来いよ」
 相変わらず眼鏡の奥のやる気のなさそうな目で、こちらを見つめながら笑いかけてくる。
「熱があるのかよ。でもなんだか元気そうだぞ」
「あははいやもう大丈夫。今は明日のレポート書いてんだよ」
やつが隙間から部屋の様子をうかがう。いいから早く帰れ。
「なんか買ってきてやろうか?」
「いや大丈夫。明日は必ず行きます。とにかく今レポートやんないと」早く帰れ。
「あ、明日の哲学Ⅱ?実はおれもうレポートできてんだよね。ちょっと見せてやろうか?」
 だめだこいつ。部屋に入る気まんまんだ。
しかし部屋に入れるわけにはいかない。風邪なのに実は友達が来てんだよというわけにもいかない。
 女がベッドで寝てんだ。
 おまけに天使だということだ。
 ここから離れるが吉と考えた僕は言った。
「ああ、じゃあ飯食いにいくか。ちょっと待っててくれ」
「今三時だぞ。まだ飯食ってないの」
「ああ、ちょっと寝てたから。『がらんどう』行こうぜ。塩そば食いに行こう。あれ食えば元気が出る」
「そう、んじゃ行くか。レポート見せてやるよ」
「山川さん。お昼ごはんまだですか?」
 すぐ隣にぼんやりした顔をした天使が目を擦りながら立っていた。
 彼女は背中に一メートルはあろうかという翼をしょっていた。

「紹介するよ。彼女はミカエル。留学生。日本のアニメが好きで、趣味はコスプレなんだ」
 僕はこたつに正座している谷口に、茶をだしながら真剣な顔で嘘をついた。
「違いますよ。私は天使です。名前をミカエルと言います。ミカっちと呼んでください」
 一気にやる気がなくなった。
 谷口は緊張した面持ちで、
「ああ、はい。はじめまして谷口です」と言って頭を下げた。僕の顔をちらちら見ながら。
「なんかさ。えーと、困ってるんだって。風邪引いてさ。梅干が食いたんだってさ」
「熱は下がりました。だからお粥じゃなくて普通のごはんが食べたいです」
 天使はのたまった。
「・・・あ、あ。私は彼の友人でして。あの、立派な羽根ですね」
 彼がそういうと天使の羽根が孔雀みたいに広がった。
「ありがとうございます。嬉しいです」
 喜ぶミカっち。室内に羽毛がわっさーっと舞った。
「実は山川さんに手伝ってもらおうと思って下界に来たんです。そしたら風邪を引いてしまって。山川さんの力をお借りして、邪教に侵されたソドムの街を救済にきたんですよ」
「ソドム・・・・・・」
 なんとも読み取れない表情をして、湯のみを持つ谷口。
「実はさ、昨日家の前で倒れているところを助けたんだよ。ひどい熱だったから一日預かったんだ。それにまだ熱が高いみたいで・・・」
「もう、はじめに風邪を引いていたのは山川さんじゃないですか」
 笑いながら肩を叩く。羽がばさーっと鳴った。もうだめだ。こうなりゃ芝居だ。
「そうそう。で、今からその街を助けに行くんだよ。なんでも僕が偶然選ばれた救世主なんだそうだ。」
「違いますよ。山川さんがソドムへの水先案内人として私を選んだんですよ。どうしても来て欲しいと願われたので私が主より遣わされたのです」
 お茶の湯気を顎にあてながらミカっちは言った。
「え、そうなの?」
「そうですよ。なんとかしなきゃ、誰か助けに来てくれって願われたじゃないですか。それにしても美味しいお茶です」
 そこまで聞いていた谷口が何か納得のいったような表情を浮かべる。何にどう納得がいったのだろう。不安で仕方がない。
「そうなんだよ。だからまたあらためて紹介するから皆にはまだ内緒にな」
 僕はそう言って話を終わらせることにした。
「・・・わかった。紹介が遅れたのはしょうがない。でもまあ、よかったな」
 谷口は何度も頷きながらお茶を飲み、なんだか哀れみのような表情を浮かべた。


 <第三章>

 一週間が経った。過酷な日々だった。とにかく毎日毎日が時間との勝負だった。締め切りは次々と襲い掛かった。一日にレポートが三つ重なったときには徹夜になった。
 その間、天使はというと、特になにもせずぶらぶらしていた。棚から漫画を引っ張り出してはベッドに寝転がって読んでいた。僕のシャツに僕の棉パンをはいていた。着てきたワンピースはどうしたのか聞いてみると、寒くてとても着れるものじゃないから、とっくに捨てたということだった。実用的じゃありませんので、と言って微笑んでいた。
 勉強の邪魔になると、金を渡して外に出てもらっていた。そのたびに天使はほとんど全部使って帰ってきた。ただ、弁当だけは買ってきたので晩飯は一緒だった。しかし毎回買ってくるビールだけは彼女が一人で飲んだ。
 そして、とうとう明日で試験の最終日となった。
 僕は天使と昼ご飯を食べに喫茶『がらんどう』に来ていた。
 天使は席についても、外に出るときいつも背負っているリュックサックをおろさない。
 僕がおろすなと言ったからだ。
 中に羽が収納されているのだ。おろされてたまるか。
 
 たらこスパゲティーをうまいけど少し柔らかいです、とかぶつぶつ言っていた天使も今では満腹になったのか、満足そうな顔をしてコーヒーを飲んでいた。
「少し薄いですけどおいしいです」
 まったく、口の減らないがきだ。
でも心の中で同意した。家の方がうまい。
 ソーサーにカップを置いた。
 明日のレポートはここにくる前にすでにできていた。出せばどんなに「芋」な内容でも単位はくれる教授なので楽勝だ。明日は出すだけでいい。これで晴れてすっきり終わりだ。
 僕はあらためて目の前の天使を見つめた。
 窓の外を眺め、机に肘をつきオードリーヘプバーンみたいなアンニュイな表情を浮かべている。
 そしてため息をつくようにつぶやいた。
「私はティファニーに夢中なのよ」
 ほんとにオードリーのつもりらしかった。あるのは薬局だが。
 一体この方はなんなのだろうか。そしてなぜに僕はこんなにも普通に接しているのだろう。いくら人生のかかった試験で忙しいからといってこんなに何にも思わないでいいのだろうか。
 なんだか就職が決まってから気が抜けてしまって、日々を投げやりに過ごしている気がしていた。そのせいなのか。
 それとも、大学に入学してから音楽がやりたかったけど、とうとう一度もバンドを組めずに、宅録しかやんなかったことが大きな悔いになっているのだろうか。それがここに来て何事に対しても、無感動な気分にさせているということだろうか。マリッジブルーならぬ就職ブルー。もしくは過ぎ行く生活への未練。わからん、つーかどーでもいいな。
 しかし結局、二曲しか作れなかったな。
 そうだなぁ。試験終わったら久しぶりにギターいじってみるか。
 目の前の金髪(目立つから帽子を被せた)、は鼻歌を奏でながら手を上げて店員を呼んでいた。
 何の歌かと思ったら、マドンナだった。
「駄目だろお前がそんなの歌ったら!」
「え、なんですか?山川さんもコーヒーお代わりします?」
「いや、いらん。薄いし」
 思わず声に出してしまった。
「そういや、ミカエルさん。完全に忘れてたけど確か、僕に何、なんか手伝ってもらいに来たんだったよね。・・・・・・ソドムを救いに」
 ソドムだけはなんか発音したくなかった。
 天使は天使のような笑顔をこちらに向けた。・・・・・・ばかばかしい。
「ええ、おかげで助かりました。山川さんの愛と勇気によって悪は滅び去りました」
「え?なんで過去形?これから行くんじゃないの?」
「いえいえ。山川さんの愛と勇気は発揮されました。山川さんは夢の中で立派に戦ってくださいました。あれだけ現実世界で熱が出るくらいですもの。それはもう大変なものでしたよ。覚えてないんですか。あ、すみませんおかわりください」
 天使はウェイトレスにコーヒーを入れてもらった。
「熱って、最初に来たときの?全然覚えてないんだけど」
「夢とはそういうものです。あち。とにかくすごかったですよ。山川さんは突撃ヘリに乗り込んで暴徒という暴徒を皆打ち倒しました」
「ヘリってヘリコプター?」
 僕は予想外の内容に本当にびっくりした。
「ええ」
 彼女はなんでもなさそうにそう言った。
「ソドムの街に平和が訪れました。それが一時的なものなのか、それとも恒久的なものなのか。それは私たちに決められることではありません。すべては彼らの御手に委ねられたのであります」
 まるで戦争映画のラストシーンみたいに天使は渋い顔を作ってそう言った。
 少しつぼだったので僕は笑った。
「ですからもう私の役目も終わりです」
 天使はそういってにっこり笑った。
 役目が終わりとはどういう意味だろう。
「ソドムを平和にできたからかね」
「それはビックリマンチョコのチョコみたいなものです。あくまで大義名分ですよ」
「肝心のシールは」
「近々はがれちゃいます」
 天使は頼んだくせにコーヒーを残して、僕の方に押しやってきた。
「もうすぐ帰ります」
 僕はそうなんだ、とだけ言って澄ました顔をしてコーヒーを手に取った。
 しかし結局飲まずに置いた。


 <第四章>

 一ヶ月過ぎた。
 僕は大学生活最後の冬休みを実家にも帰らずに天使と一緒に過ごした。
 谷口がサークルの連中を連れて遊びにきたこともあったので、天使も一緒に鍋を作って食べた。
 どうやら少し痛い留学生の彼女だという認識で通っているようだった。
 もう学校に行く必要はなくなっていたからほとんどの時間を一緒に過ごした。映画を見にいってはぼろくそにこきおろし、飯を食いに行ってはあそこの方がうまいと文句をいい、街をブラブラしてはHMVでCDを一枚買ってきて、夕方になるとそれを掛けながら飯を交代で作って食べた。彼女はベッドで眠り、僕はこたつの下に布団を敷いて眠った。
 そしてある夜、僕は天使が家でも本格カクテルを楽しむ必要が絶対にある、と言い張るので、奮発して買ってきた洋酒を本棚の上の簡易サイドボードに置いて、二人で料理を作ることにした。よせというのにテンションの上がった天使が生ハムや高級ウインナーを買い込んだので強制的にパーティーをすることになったのだ。天使は洋梨を剥いて生ハムと並べている。僕は絶対にスパゲティーが食べたかったので、バジルの壜からソースを掬いだして、レンジで温めた。それが終わると、サラダも作ったし、それじゃあメインだということで、冷蔵庫から鯛の切り身を取り出した。バイトをしてない学生の買うものじゃ絶対になかった。
 そのとき、ウインナーを茹でているはずの天使のほうからプシュっという聞きなれた音が聞こえた。
 振り向いてみると、ウインナーに噛り付きながら、缶ビールを喉を鳴らしながら飲んでいた。
「こら、自分ひとりではじめるんじゃない」
「最高においしいです。こんなにおいしいもの食ったことないです」
 天使は悦楽の笑みを浮かべながら、目を細めてビールをあおっていた。口元から首に一筋伝ったのを左手でぬぐっている。
「こないだ映画見た帰りに食っただろうが、ビアホールで」
 僕が天使の缶ビールを取り上げようとすると、鼻を鳴らして押しのけられた。ムカッとしたが、代わりに冷蔵庫からもう一本取り出してこちらによこしたので、許すことにし、プルタブを起こして、冷たい飲み口に吸い付いた。
 「ふー。うますぎる。気持ちいい。あ、いらない。あとで食う。それより天のすけは早くソース作って」
 僕は天使にバルサミコ酢を煮詰めさせた。
 隣の部屋からはローリングストーンズの『悪魔を哀れむ歌』が流れていた。

 パーティーは六時くらいからなし崩し的に始まった。
 われわれは狭いコタツテーブルに料理を並べ、照明をおとし、音楽掛けかけ、映画や小説の話から、時代の話、友人の話、人生訓、注目の新刊漫画、エトセトラなど、思いつくままに、ときに反発し、ときに協調しながら大いに語りあった。
 いくつものビールを空き缶にし、焼酎と高級ウイスキーを気前よく開けて、酩酊はここに極まった。
「いいですか、山川さん、大切なことはですね、『過ぎないこと』です。愛しすぎない食べ過ぎない、考えすぎない、通り過ぎない・・・・・・ね?わかりますか。ゲプ。別に我慢しろってわけじゃありません。ただ過ぎないことです。そうすりゃなんとなく、見えてくるものがあるはずです。バビロン」
 少し口に回った感じの熱っぽい口調で、ミカっちは自分の説をそう声高に宣言した。
 そして、胸を張ってこちらにピースサインをした。Tシャツに描かれたヘロヘロのニコチャンマークがぴんと張った。
 クライマックスだ。
 僕はそうだそうだ、バビロン!と大いに同調し、室内にタイミングよく流れだしたスピッツの『ロビンソン』にハモった。サビがくると諦めて、コーラスに回った。
 「風呂です!」
 そう唐突に言って立ち上がると、天使は妙に足早に浴室へ向かっていった。大丈夫だろうか。机の周りには少なくともビールの空き缶が十本はある。こんなにこの人が飲んだところをこれまでみたことはなかった。
 少しテーブルの上を片付けていると、シャワーの音とともに完璧なサビの部分が聞こえてきた。
 さすがに女にはかなわん。
 かなわん、かなわんなあと思いながらもう一杯焼酎をコップに注いだ。そのころにはもう、曲はカップリングの『俺のすべて』になっていた。
 立ち上がって、窓を開けた。
 きんと張り詰めた冷たい風が、室内に一気に滑り込んできた。空は暗く、灰色をした雲の底が家々の屋根の上に広がっていた。
 電気を全部消してみた。すると、外の景色がきれいに浮かび上がった。
 風は冷たく、火照った肌に気持ちいい。耳を指す冷気とともに焼酎を飲んだ。心臓の鼓動が早かった。なんだかむやみに楽しかった。
 「・・・友情」
 なんの気なしにポツリとそういってみた。
 それほど違和感はないようだった。
 室内を振り返ると、台所から漏れる明かりで、棚の端の緑色の封筒が見えた。昨日送られてきた、採用企業からの内定式の案内だった。起死回生の第一志望だ。くそ。
「クソ」
 僕は頭を掻いた。
 あいつはここ数日、もうすぐ帰ると言わなくなっていた。
 時計を見ると、九時を回っていた。
 僕はドライヤーの音を聞きながら焼酎をさらに注いだ。
 
         ※ 
 
 うん・・・・。
 寒い。今何時だろうか。
 暗い室内の中、手探りで目覚まし時計に手をのばした。デジタル表示が緑色に光った。十一時半だった。
 あのあと、天のすけが風呂から上がって宴会の第二ラウンドをしたあと、そのままずるずると寝てしまったようだ。
 音楽は消し忘れたようで、天使がこの間気に入って買ってきた、ロウとかいうバンドの『Closer』という曲が流れていた。
 コタツをめくると赤外線に赤く照らされた天使の足が見えた。彼女も向こう側で蹲っているようだ。 
 僕はシャワーを浴びるために風呂場へ向かった。
 熱い湯を浴びた後、ドライヤーで髪を乾かして、歯磨きをした。そして冷蔵庫から一.五リットルの水を取り出して飲んだ。
 静かに引き戸を開けると、真っ暗な部屋の中、ベッドの掛け布団が膨らんでいた。風呂に入っている間に、天使がベッドへと移動したようだった。
 僕は台所の電気を消して、部屋に戻った。そして一人コタツの前に腰を下ろした。 
 窓を見ると街頭の小さな明かりとともに、低く垂れ込めた雲が見えた。天気予報どおり、もう少しで雪が降りそうな感じだ。部屋はどんどん気温を下げていた。
 ウイスキーをコップに入れた。
 そして生でぐびっと飲んだ。
 ゆっくりと熱い塊が喉を伝った。
 僕は顔に手をやった。心臓が急速に鼓動を早めていた。
 室内はひっそりとしていた。
 音楽は天使が消したようだった。
 起死回生の第一志望なんだよ、クソ。か。
 僕はさっきふと思った気持ちに、少し笑ってしまった。
 柱時計が十二回ぼーんぼーんとなった。
 そして、ゆっくりと立ち上がった。
 
 緊張で喉が鳴る。
 そっとベッドの方へと向かった。目の前のまるまった掛け布団の端から髪が覗いている。
 静かにベッドに手をついた。布団の冷たさが心地よかった。
 みしっというスプリングの音が小さく響いた。
 触れないように気をつけながら、静かに膝を乗せると、ベッドへ横たわった。そしてゆっくりと毛布のなかへ入っていった。
 ちょうど自分の鼻の先に、目をつむっている彼女の顔があった。暗闇の中、彼女は静かに息づいていた。
 僕は熱があったとき彼女がしてくれたように、腕で抱えるようにして、そっと髪をなでた。
 彼女は何もしなかった。
 体温がじんわりと布団の中に満ちていた。呼吸に合わせてゆっくりと肩が動いている。そこに命あるものの生きた感触を感じた。そして自分自身の身体自体がすごく意識された。僕も生きているのだ。
 僕は目を閉じて、そっと彼女のシャツの下に手を入れた。
 それに反応して呼吸が変わるのが感じられた。
 ゆっくりとなでるように手を滑らせていった。彼女の驚くほど滑らかな肌のしたの、骨の輪郭をたどった。そして、手のひらが柔らかな膨らみにあたった。僕は左の乳房にそっと指の腹を押し付けた。皮膚がしっとりと吸い付いて、指がまるでしびれる様な感じがした。
 「はあ」
 身体がぴくりと震えて、彼女が大きく吐息を漏らした。彼女の口からこぼれた熱くて甘い息が鼻をくすぐった。
 僕も息が乱れた。自分の心臓の鼓動がはっきり聞こえる。
 ベッドの外はまたかなり寒くなっていた。雪が降りだしたのかもしれない。
 僕は彼女の髪に鼻を押し付けた。シャンプーのにおいがした。
 左手でそっと前髪をすくって、耳をなでた。くすぐったいのか、彼女は首をすくめた。
 僕は現れた白い首筋に唇をつけた。
 そして中指と親指で、乳首を優しく摘んだり、つぶつぶをなぞったりした。その度に熱い吐息が僕の耳にあたった。
 「ふう」
 彼女は身体を伸ばしたり、捩ったりした。
 僕は、深く息を吸い込むと、静かに両手で彼女のTシャツの端を握り、ゆっくりと捲り上げていった。
 目が慣れてきたために、おなかの滑らかな肌が見えた。それに続いておもちみたいに柔らかそうな乳房がふたつ現れた。
 彼女が脱がしやすいように手を上げてくれた。そして、肩のラインまで捲くりあげたとき、それがとまった。
 ?
 脱げない。
 引っかかって脱げないのだ。
 あれ?
 彼女が薄目を開けた。
 どうしたの?といった感じでこちらを見ている。
 「あれ、ん」
 僕はぐいぐいとひっぱった。
 彼女は顎を上げたまま、不思議そうな目をこちらに向けている。
 なんだよこんなときに、ったく。 
 水を指されたように感じた僕は掛け布団を乱暴にめくった。
 すると、引っかかりも引っかかっていた。彼女の背中、肩甲骨から生えそろう一対の巨大な翼に。
 「なんだよもー」
 僕は声に出していった。
 「ふふ」
 彼女が笑った。
 「はあ」
 僕はため息をつくと、Tシャツをもとに戻した。
 僕はベッドに力なく寝そべって、彼女の顔をみた。豊かな唇が毛布の感触を味わうように隠れ、心地よさそうに目を閉じていた。
 その顔はやっぱりどう考えても天使だった。天使以外の何者でもなかった。この地上に民の呼び声を聞いて降り立ったのだ。
 呼んだのはおそらく・・・。
 だったらもうこれ以上やることは神の意思とやらに反するに違いない。
 とにかく羽根が、真っ白な羽根がついているからしかたがないのだ。
 それに・・・。
 「今日はちょっと飲みすぎました」
 彼女がそう言った。これから気分を奮い立たせるのはもう無理そうだった。
 「僕も飲みすぎた」
 身体が急速に重くなっていった。
 布団をもとにもどした。
 しばらく何も考えなかった。
 掛け時計の秒針の音だけに耳を済ませていた。この間ねじを巻いたばかりのそれは休み無く一定のリズムで時を刻んでいた。しばらくして天使の寝息が聞こえてきた。
 僕は目を瞑った。
 今日は楽しかった。
 
 だからなんだよ。
 だから、さ。
 天使に用はないんだよ・・・・・。
 僕は彼女のTシャツの袖にそっと触れながら眠りに落ちた。

 
 夢を見た。
 ソドムの夢だった。
 そこでは焦土が一面に広がっていた。デッドケネディーズの『holiday in cambodia』をバックに力説する、村長の説明は時代掛かっていてかっこよかった。
 彼によると、
『欲望が疾風のごとく街を駆け抜け』
『人々は善悪の彼岸に達してしまった』
ということだった。
 それは人間に耐えられることではない。
 早い話がゾンビだよ、と結論した彼の姿は強烈だった。
 僕とミカエルは村長の協力のもと、麻薬密売人に変装して酒場に潜入し、地下の奥深くに隠されていた突撃ヘリを奪取。神罰の光とともに地上へテイクオフした。
 谷口がバベルの塔の頂上に立ってベトナムなまりの中国語を叫びながら大きな旗を振っていた。
 真っ白い旗だった。
 それを合図に世界に嵐が吹き荒れ、漆黒の空を切り裂く、一筋の金色の光となったヘリコプターが空に舞い上がった。僕は地平線までひしめきあう無数のゾンビに向かって機銃を乱射した。
 ナパームを使った。
 天使は僕の乗るヘリに並走するように大きく翼を広げ、僕にアドバイスをしながら空を飛び交った。
 最後はとうとう太陽を味方に付けたわれわれに、ゾンビはすべて打ち倒された。
 正義のもとに、街に平和が戻ったのだ。
 街にたった一人だけ生き残った村長は言った。 
『あなたの愛と勇気は確かに発揮されました』
 めでたしめでたしだった。
 平和で孤独なめでたしだった。

         ※

 窓から強烈な朝日が差し込んで思わず目を覚ました。
 カーテンを閉め忘れていたのだ。
 朝六時か。
 まだ全然寝たりないし、酒が頭に残っていた。
 室内は昨晩のドンちゃん騒ぎのあとが広がっていてひどいものだった。
 もうそこには天使の姿はなかった。
 「天使に用はない・・・か」
 枕のそばに一枚落ちていた羽根をぼんやりみつめながら、僕はそうつぶやいた。


 <終章>

 卒業式も実にあっけなく終わった。
 引越しの準備をまとめた僕は、することもなく、ダンボールだらけになった部屋でビールを飲んでいた。
 あれから、なんだかすっかり現実的になってしまった。
 もう企業の内定式に参加し、新しく住む寮の手続きも終えていた。友人たちには僕は彼女に振られたことになっていた。
 ギターは先日、近所のリサイクショップに売ってしまった。
 新しく買えばいいやと思ったし、寮へもっていくのはなんとなくためらわれた。
 なんと三千円だった。
 僕はビールをあおった。もういいや、と思った。
 羽根は部屋の中央にぽつんと置いた空き缶に指してあった。
 あとは次なる現実へと向かうだけだ。
 ボーンボーンと時計が鳴った。
 朝の八時だった。
 ビールを持って窓を開けた。
 朝の光が塵のように辺りに舞っていた。
 今日は少し暖かいようだった。
 下の通りには集団登校をしているこどもたちがいた。先頭の引率している先生がこちらをちらっと見つめた。
 へっ。 
 なんの問題もなかった。
 冷蔵庫は空にしないといけないのだ。
 僕はゆうゆうとビールを飲んだ。
 全部飲み終えて、もう一本取り出しに台所へ向かった。
 すると冷蔵庫の横に貼り付けたカレンダーが目に留まった。あれからもう二ヶ月経っていた。
 それをみて、僕は彼女の言葉を少し思い出した。
 『山川さんが、ソドムへの水先案内人に私を選んだんですよ』
 そう言ってたっけ。
 『なんとかしなきゃ、助けてくれっておっしゃったのは山川さんじゃないですか』
 
助かったよちゃんと・・・・・・。
僕はビールを諦めて、部屋に戻った。
そして真っ白い羽根を取ると、外へ出ることにした。
 
 朝の手付かずのすがすがしい風が狭い車道を吹き抜けていった。
 大きな国道に出ると、ゆっくりと南に向けて歩いた。
 車はまばらにしか走っていなかった。 
 しばらく歩き、細い路地を通り抜けると、堤防に出た。
 高いコンクリートのうえには松林の頭が覗いている。
 しばらくポケットに手をつっ込んで、堤防沿いの道をたどった。
 スポーツ自転車が一台、隣を駆け抜けていった。
 左手の先、堤防のくぼんだところにいつもの階段があった。
 僕は足音を鳴らして、鉄の階段をゆっくりあがっていった。
 堤防の上に立つ。
 エンディングにふさわしいようだった。
 そこからは、海が見えた。波が生きているかのように砂浜に打ち寄せている。潮が引くと、ぬれた砂浜がキラキラと茶色に輝いた。雲が多いが空は晴れていた。
 太陽の光が一面を照らしている。
 遠くの砂浜に犬を散歩させている人がいた。僕はipodを取り出してエンディング曲を探した。
 
 海風を全身に浴びる。
 ジャケットの裾が音をたててはためいた。
 そのまま海の方へ、堤防の上を歩いていった。潮風で錆びてぼろぼろになったスクリューが転がっていた。
 一番突先までたどり着く。目の前には大きな海がたっぷりの水をたたえて、堤防に音を発てて打ち寄せていた。左に隣の島が見え、そこへ架かった大きな橋の半分に雲が陰を落としていた。
 「愛と勇気は発揮された」
 僕は口に出してそういってみた。
 島に渡る船を見つめる。
 ・・・これでベストだろ?
 ポケットから白い羽根を取り出した。
 ふっと吹き飛ばすと、羽はひらひらと風に飛ばされていった。
 橋の上で島に渡るトラックが、日の光を反射させて黄色に輝いていた。

 ・・・・・・
 ・・・エンド。
 
 『なんだか、小洒落てますね』
 なんだよ、こんないい時に。
 どこからか唐突に天使の声が聞こえた。
 そうだよ。
 エンディングなんだぜ。
 これで最後だ・・・。
 『シチュエーションですか』
 うるさいなぁ。
 ・・・・・・
 ・・・
 
 ?
 音楽が流れていないことに気がついた。もうエンドクレジットはかなり流れているはずのに。
 僕はポケットに手を入れて再生ボタンを押した。
 キィアアアアアアアアアアアアアアン
 その瞬間、激しい不協和音が耳をつんざいた。ニルバーナの『you know you are right』だった。
 間違えた。
 僕はあわてて、一時停止ボタンを押した。あれ、エンディング曲は『俺のすべて』にしていたはずなのだが。もういい。いっそ『やさしさに包まれたなら』にしてやる。
 すると、何かがふわりと右手の袖にくっついた。
 それは先ほど海に投げた、天使の羽根だった。
 羽は海へ届くことなく、風に揺られて再び地上へと舞い戻ってきたのだ。
 あああああもう! 僕は心底イライラした。
 天使の、天使のような笑顔が頭に浮かんできた。
 『おいしいけど、薄いです』
 ふざけんな!
 僕は後ろを振り返った。
 辺りには誰もいなかった。波の音と船の音がするだけだ。
 この広い海浜公園で、晴れた空の下、僕はバカみたいにひとりでつっ立っていた。
 遠くに犬を散歩させている人が見えた。微かに鳴き声が聞こえる。
 次の瞬間、『やさしさに包まれたなら』が流れ始めた。
 僕は急におかしくなって笑い出した。
 本当におかしかった。こんなにおかしいのは久しぶりだった。
 ここにはなにかをする必要も、読むべき空気も、考えるべきものも、サンプリングもインスパイアもなかった。
 ここは海だ。
 ここにあるのは潮風だけなのだ。これからもずっと。ここに海があるという、そんなことすらしばらく忘れていた。
 僕は大声で笑った。一人でこんなに大笑いしたのは初めてだった。
 そして『やさしさに包まれたなら』を大声で歌い出した。
 
 歌い終わって、潮風を胸いっぱい吸い込んだ。いい気持ちだ。
 そして海に向かって大声で叫んだ。
「戻ってこーい!」
 天使に用はない。
 今度こそ本気で僕は信じた。
 ・・・嘘でも、信じていいだろ?
 さあ、どうだ。
 僕は空を仰ぎ見た。
 雲が美しかった。
 そのときだった。
 
 プシュッ。
 聞きなれた音が後ろから聞こえた。
 僕は急いで後ろを振り向いた。
 ビールを飲んでいた。
 Tシャツにジーンズ姿。水色のスニーカーをはいていた。
 全部僕のやつだった。やっぱりこいつが持っていたのだ。
 髪は真っ黒になっていた。
 「やっぱりシチュエーションが大事ですか」
 大事なんだよ。空から来いよ。
 背中には、はさみで切り抜いたような穴が風に揺れていて、そこから裸の背中が見えた。
 見るからに寒そうだ。
 「あっちのコンビニで買ってきました。ここいらじゃレアですよ」
 そういって緑色のハイネケンを一本よこした。
 僕は受け取ると、ジャケットを脱いで手渡した。確かにレアだ。
 「で、なにか御用ですか」
 彼女は寒そうに、上着に袖を通しながらそう聞いた。
 「うむ。実は色々助けてもらおうと思ってさ」 
 僕はプルタブを起こした。プシュッという小気味のいい音がした。
 「まずはヘリの操縦の仕方を教えてくれ」
 僕は言った。
 彼女はそれを聞いて、やれやれという感じでビールを飲んだ。
 「たいしたシチュエーションですね」
 その顔はというと、もうちっとも天使っぽくなかった。
 僕は笑って、冷たい吸い口に口をつけると、一気にビールを飲みはじめた。
 彼女は全く仕方がないなという感じでジャケットから羽根を取り出すと、そっと風に乗せた。
 白い羽根は、風に乗って勢いよく空に舞い上がった。



 完


堀江由衣さん『Golden Time』ED『Sweet Sweet CHERRY』



inspired by
・key『AIR
秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏

influenced by
新海誠君の名は。